山里の記憶143


ミニ盆栽:清水史朗さん



2014. 1. 27



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 一月二十七日、秩父市の下影森にミニ盆栽の取材に行った。取材させていただいたのは
清水史朗さん(八十歳)。ミニ盆栽を作り続けて四十年になるという史朗さんの作品を見
せていただき、いろいろな話を伺った。                      
 ミニ盆栽は、盆栽の世界では小品盆栽と言われるもので、全体の大きさが十センチから
十五センチくらいのものをいうらしい。秩父地方では史朗さんを含めても五人しかやって
いないそうだが、昔から愛好家がいる趣味の世界だ。                
 史朗さんは盆栽だけでなく何でも作る人で、盆栽の鉢や置き台、小物、彫刻など何でも
自分で作ってしまう人だった。居間のショーケースに鉢が並んでいて、その数と種類に驚
かされた。何十年もかけて自分で焼いたものだそう。                
 様々な木に合わせるために様々な鉢を焼いている。形も様々だ、色も模様も全部自分で
考えるという。鉢も台も繊細な作りで素晴らしいものだった。            

 庭のビニールハウスにミニ盆栽が所狭しと並んでいる。その数と種類に圧倒された。 
 樹種は、ありとあらゆるものが盆栽になっていて、二十年から三十年育てているものも
多い。サルスベリ、トウカエデ、イロハモミジ、ヤマモミジ、アカマツ、ケヤキ、クワ、
チリメンカツラ、イボタ、五葉松、真柏、ツツジ、コナラ、バラ、ツゲ、ヤマツツジ、カ
リン、メギ、レンギョウ、銀杏、コマユミ、ニシキギ、萩、カマツカ、柿、ほか色々。 
 普通に考えると、これらの木々が十センチの大きさで二十年も育ち続けるなどというこ
とが可能なはずはないと思ってしまうのだが、現実に目の前でそれを見ると植物の神秘と
手入れの技に呆然としてしまう。                         

史朗さんが丹精込めて作り上げた松、真柏、五葉松などのミニ盆栽。 史朗さんが得意としているケヤキのミニ盆栽。本にも紹介された。

 実を見せるもの、紅葉を見せるもの、新緑を見せるもの、樹形を見せるものなどなど様
々なミニ盆栽がビニールハウスに整然と並んでいる。                
 ケヤキなどは種を蒔くところから始まり、樹形の良い物を厳選して育てる。数多く育て
る事で変化のあるものがたまに出るから面白いのだという。ケヤキは上に伸びるものがい
い。ホウキ型に育つのが理想だ。横に枝が伸びるのはダメだ。一年でどんどん大きくなる
から、毎日見ていないとダメになる。二十年育てたケヤキが枯れることもある。    
「何でも出来るけど、実ものは難しいね。柿の実は成るけど、カリンは実が付かないね」
「地元の木がいいよね。育てやすいし、強いよ」「趣味でやってるんで、売ったりしない
んだいね。年に五回ある展示会に出すのが目的かな…」               

 史朗さんは昭和四十八年に保谷で開かれていた盆栽展を見て、東芳会(現在の日本小品
盆栽協会武蔵野北支部)に入会した。小品盆栽をやっている人は少なかったが、史郎さん
は小品盆栽の道を選んだ。先生が丁寧に教えてくれたが大変だった。「最初は”空間の美”
なんていわれても、何のことだかわからなかったいねぇ…」と当時を振り返る。    
「とにかく何でも作るんだ好きなんだぃ」という史朗さん。ミニ盆栽も、鉢も卓も置物も
自分の手で作る。四十年追い求めた趣味の世界だ。                 

 日本人は自然の景観を庭園で楽しみ、それを鉢植えにして小さくした。更に盆栽で小さ
な大木を愛で、それが更にミニ盆栽となって、卓上で大木を楽しむまでに至った。二十年
育てて十センチの大木にする。なんという世界。                  
 日本人らしい発想と技術がここに結集しているような気がする。          

ビニールハウスには自慢のミニ盆栽がズラリと並んでいる。 2003年8月の「盆栽世界」に、五ページに渡って特集された。

 ビニールハウスから居間に戻って、お茶を頂きながら史朗さんに昔の話を聞いた。  
 史朗さんは秩父市久那の産まれで、五人兄弟だった。実家は農家だった。      
 十六歳の時に川越の靴屋さんに奉公に出た。小僧という立場で店の様々な仕事をした。
上野に仕入れに行くと顔を腫らして今にも死にそうな人がいるような時代だった。無我夢
中で働いた。食べることだけで精一杯の時代だった。                
 やっと仕事にも慣れ、一人前の職人になった史朗さんに縁談の話が持ち上がる。相手は
兄嫁の妹、つまり兄弟同士で結婚するというものだった。三田川の三山出身の姫子さんが
二十一歳、史朗さんが二十七歳の時に結婚した。                  

 昭和三十七年、子供が出来た史朗さんは思いきって武蔵野市に小さな靴屋さんを開業し
た。お金がなかったし、無我夢中で働いた。幸いなことに靴を全部手作りで作る店はなく
良い得意先に恵まれた。この武蔵野市時代はとても楽しかったと史朗さんはいう。   
 有名な落語家さんや、映画会社の役員、医者やバンドマンというオーダーメイドの靴を
履く人々が常連客になる。そういう人たちとの付き合いが楽しかった。        
 靴をデザインして型紙を作り、ミシン縫製して仕上げる。全部を一人でやった。ミシン
縫製の職人さんがいい人で、全部教えてくれた。道具も全部くれた。「本当にいい人に恵
まれたよね…」と当時を懐かしむ。                        

 デパートや大手スーパーの店頭で立派な靴が売られる時代になり、店の売り上げが落ち
てきたころ、秩父市からある話が持ちかけられた。                 
 清瀬に秩父出身者が使う学生寮を作るのでそこの管理人を頼めないか、というものだっ
た。昭和四十六年のことだった。悩んだあげく史朗さんは十年続いた武蔵野市の店をたた
んだ。昭和四十八年、完成した三階建ての学生寮に家族で移り住んで、管理人となった。
 同時に市の職員となった。「一度も出勤したことがない職員だったいね」と笑う。  

 学生寮は九部屋で、一部屋を二人で使う形になっていた。当初は休みはなく、三百六十
五日朝から夜まで学生達の生活全般の面倒を見た。十年後日曜だけは休めるようになった
が色々な事があり大変だった。学生は男子学生のみ。東京の大学や専門学校に通う学生が
利用していた。家賃は月に八千円。一日三百五十円の食費で、朝と夜の食事を作った。献
立を秩父市の栄養士が出してきて、その通りに料理を作った。材料代が高くて赤字になる
こともたびたびだった。                             
 史朗さんは学生寮の近くに畑を借りて、野菜を作って埋め合わせをした。時には近所の
農家から野菜をわけてもらうこともあった。「里芋をくれるからって持ちにいったら軽ト
ラの荷台に山積みになってて、驚いたこともあったんよ」いろいろ楽しい思い出もある。

 そんな学生も今ではみんな偉くなった。中でも史朗さんの印象に残っているのが、落語
家になった林家たい平師匠のこと。武蔵野美術大学に通っていた当時のたい平師匠の文化
祭を見に行った時の事だ。一部屋借り切って、秩父屋台囃子を大音量で流していた。  
「昔から変わった子で、元気で目立ってたよね」と目を細める。           
 そんな学生寮だったが、二十年で廃止になった。秩父市の財政上の問題だったのか、入
寮する人が少なくなったせいなのかわからないが、史朗さんがちょうど定年の時だった。

 秩父市の下影森に家を求め、越してきた。結婚以来初めてふる里に戻ってきた。奥さん
の姫子さんはこの家に来てからも保育所で働いた。週に二回卓球をやるくらい元気だった
が、三年前に病気になってしまった。一年間入院して史朗さんの必死の看病もむなしく、
二年前に亡くなった。心臓の病だった。                      
 今は一人で暮らしている史朗さんだが、家は驚くほどきれいだ。何でも作る人は整理整
頓の名人でもあるようだ。今は能面を作っているんだと新作を見せてくれた。本当に何で
も作る人だ。姥の面は深い皺を刻んで史朗さんの手に乗っている。          

今は面打ちをしている。最新作「姥」の面を手に持って満足そう。 取材を終え、自宅前で記念写真。笑顔で見送ってくれた。

 昼になったからと、史朗さんが蕎麦を打ってくれた。手打ち蕎麦に天ぷら付き。そして
干し貝柱をもどして炊いたホタテご飯と浅漬けが出てきた。             
 全部史朗さんが作ったものだ。蕎麦もホタテご飯も美味しい。どこかの料亭で食べてい
るかのよう。「天ぷらはウチのが上手だったんだいね…餃子なんかも俺は刻む専門だった
んで包むのが出来ないんだいね…」と奥さんの話が出る。まかないをやっていたから料理
はたいがい出来るよと笑う。何でも作る人は料理も名人だった。           

「昔、人を羨ましがる人間になるな、嬉しがられる人間になれって言われて、本当にそう
だなあって思ってね、そう生きられたらいいよね…」                
 最後に史朗さんがポツリと言ったが、本当にその言葉通りの人生になっていると思う。