山里の記憶142


牛飼い:富田益雄さん



2014. 1. 16



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 一月十六日、秩父市太田に牛飼いの取材に行った。取材させていただいたのは富田益雄
さん(七十九歳)。家に伺って挨拶し、炬燵で昔の話をいろいろ聞かせて頂いた。   

 益雄さんが小学五年の時に終戦を迎えた。戦後の混乱と新しい学校制度などの中、大田
中学から秩父農高に進んだ益雄さん。農高には農業科と畜産科、林業科の三つのクラスが
あり、益雄さんは畜産科を選んだ。                        
 家は旧家で農家だった。養蚕も大規模にやっていたが、益雄さんは桑にカセる(かぶれ
る)体質で、桑刈りや桑運びが苦痛だった。父親は農家の跡継ぎとして農業科に入れたか
ったようだが、益雄さんは畜産科を選んで畜産を学んだ。              
 高校の卒業を前に試しに受けた銀行の就職試験に合格した。益雄さんはそのまま銀行に
就職しようと考えたのだが甘かった。卒業式の前にそれを知った父親が激怒し、跡取りは
家を継ぐんだとばかり、益雄さんの退学届を出した。これには先生も益雄さんも驚いた。
 校長先生が間に入り、学校で話し合いが持たれた。益雄さんは結局学校卒業は許された
ものの、銀行への就職はかなわなかった。その代わり、校長先生からのすすめもあり、畜
産で身を立てることになった。                          

 昭和二十八年の三月十五日に卒業し、四月の十五日には北海道から一頭の乳牛が来た。
たまたま共同で乳牛を買った人が、一人だけ急に飼えなくなった牛だった。すぐにその牛
を飼い始めた益雄さん。近所で牛を飼っている人からいろいろ教えてもらいながら牛飼い
の道に入った。子を孕んだホルスタインだった。乳搾りやエサのやり方を教えてもらいな
がら手探りの毎日だった。朝、昼、晩と乳搾りをしなければならず大変だった。    
 その牛が子供を産んだ。子供はメスだった。こうして年々一頭ずつでも増やせば、順調
に牛が増えることを知った。当時二十頭の牛を飼っていた皆野のおじさんに指導してもら
いながら、順調に牛を増やしていった。おじさんは郡市酪農協同組合の理事長だった。 

 昭和三十四年、縁あって一つ年下の文子さんと結婚。文子さんは慣れない牛飼いを手伝
ったり、父母の農作業の手伝いもあったりと忙しかった。「牛の世話をするんが怖くって
ねぇ…」と当時を思い出して笑う。その時、益雄さんの手元には四頭の牛がいた。   
 文子さんという伴侶を得て、益雄さんは本格的に酪農に乗り出す。全秩酪農協同組合に
加入し、組合員として活動を始めた。                       
 日当たりの悪かった牛舎を西向きから南向きに変え、十二頭飼える牛舎に作り直した。
 血統のいい種を選んで種付けをし、年に一頭ずつ牛を増やしていった。       

昭和四十八年に完成した牛舎。当時の最新式機械を導入した。 昔使っていたサイロが残っていた。これに千二百キロの草を入れた。

 昭和四十六年のことだった。益雄さんの将来を決める大きな決断を迫られた。農協の斡
旋で鉄骨の大きな牛舎を建設することになったのだ。益雄さん三十五歳の時だった。今ま
で誰もやったことない最先端の機械を導入する計画だった。             
 外国製の搾乳機を導入し、消毒はボイラーの高温の蒸気で行うという画期的なもの。ま
だ普及員も知らなかったチェーン式の牛糞自動処理機バンクリーナーの導入も決めた。 
 問題は費用だった。全部で千二百万円かかる施設だった。そんなお金を貸してくれると
ころはどこにもなかった。                            
 たまたま文子さんの兄が県の普及員をやっていた。その兄が農業総合資金というのがあ
ると教えてくれた。埼玉県の資金で、農業の振興策のひとつだという。その資金を借りる
ことにした益雄さん。実家の農地を担保に入れて、一千万の借り入れをした。     
 牛舎は昭和四十八年に完成した。すぐに二十頭の牛を入れたが、まだ半分にも満たなか
った。しかし、牛を購入する資金はなかった。このままでは返済すら難しい。     

 そんな益雄さんに思わぬ追い風が吹いた。それは、昭和四十九年のオイルショックだっ
た。諸物価が高騰し、近所で牛を飼っていた人たちがえさ代の高騰に音を上げて、牛を手
放したのだ。牛の多くは肉にされたが、痩せている牛は肉にもならなかった。そんな牛を
桜井畜産が益雄さんに預かって欲しいと言ってきた。牛舎は空いているし、牛乳を搾って
もいいという事だったので引き受けると、どんどん牛を持って来た。         
 一年で三十頭の牛が来て、牛舎は一杯になってしまった。思わぬ事で牛舎がいっぱいに
なったのだが、今度はエサがなくなった。埼玉糧穀という会社にエサを頼んで、ソヤレッ
トという配合飼料を使っていたのだが、必要な分を買うことができなかった。     
 そんな益雄さんを社長が助けてくれた。社長が「富田を助けろ」と言ってくれ、従業員
が夜にエサを運んでくれた。これは本当にありがたかった。仕事上でも一筋に付き合って
きた信用だったのだろうと言う。いざという時助けてもらえるのは信用の結果だ。   

昔使っていた外国製の搾乳機を説明してくれる益雄さん。 今飼っている黒牛。子取りをして四ヶ月育てて出荷する。

 さらなる追い風が吹いた。昭和五十年、乳価がキロ八十円から百二十円に上がった。 
 益雄さんは五十頭の乳牛から日産一トンの牛乳を出荷していた。単純計算で一日四万円
の収入アップということになる。この乳価の値上げは借金の返済を楽にしてくれた。  
 五年据え置きで借りた一千万円を五年目に全額現金で返済することができた。すべての
物価が上がることになった石油ショックが良かった。貨幣価値がその分下がったからだ。
「運が良かったんだい…」と益雄さんは言うが、それだけではなかったはずだ。運は頑張
っている人のところに転がってくるものだから。                  

 五十頭の牛を飼い続ける苦労というのは大変なものだ。特にエサの確保は大変な問題だ
った。益雄さんはトウモロコシを一町歩の畑一杯に植えてそれをサイロで貯蔵した。その
サイロも自分で工夫して作った。三枚の鉄板を丸く接合し、そこに千二百キロものトウモ
ロコシを詰め込んで鉄のフタをするというもの。これならどこにでも作れるし、移動も可
能だ。多い時は二十個ほどこのサイロを使ってトウモロコシを貯蔵した。       
 乾燥エサは北海道から買った。稲わらは市農協から買った。加入していた酪農組合では
トウモロコシを作っていた。時期になると組合の職員が二人で刈り取りに来てくれた。組
合には、トラクター取付けのトウモロコシカッターがあったので、それで刈り取った。 
 一個のサイロ一杯のトウモロコシは、五十頭飼っていた時は十五日でなくなった。フォ
ークリフトで毎日サイロから牛舎へ運んだ。乾燥エサや稲わらは牛舎の二階に保管してい
たが、その重さで一階のドアが開かないようなこともあった。            

 当時、文子さんが学校のPTAで出かけた時の事を笑いながら話してくれた。     
「若いお母さんだったんよ。横に来て、大田の方でいっぱい牛飼ってる家があって、つぶ
れそうなんですって、と話しかけてきたの…。最初は何だろうって聞いていたんだけど、
どうもうちの事らしくって、驚いちゃったのよ……」                
 世間からはそんな風に見られていたのかとショックだった。文子さんは畜産の事はよく
わからなかったから、手伝うことくらいしか出来なかった。             
「私は、せめて嫌な顔をしないってことで協力しようと思ったのよね……」      

牛糞は牛飼い最大の問題。今は畑に山盛り放置して肥料にしている。 玄関で見送ってくれた益雄さん。七十九歳でまだ現役だ。

 益雄さんは牛飼いを六十で止めるつもりだった。それが、七十までやるか…という話に
なり、七十九歳の今でも九頭の牛を飼っている。今飼っているのは乳牛ではなく黒牛だ。
子取りをして四ヶ月肥育し、市場に出荷する。                   
 牛は二十日に一回発情するので、その時に種付けをする。種付けをする種は品種や血統
によって値段が違う。一万五千円から三万円くらいまでと幅広い。黒牛の場合は肉の付き
やすい血統が良い。オスが産まれると高く売れるので喜ぶ。             
 四ヶ月肥育してオスで約四十万円、メスで三十万円くらいが平均だ。個体差が大きいの
で二十万円にしかならなかった牛もあったし、四十六万円で売れた牛もあった。目安とし
て百二十日肥育して百二十キロ以上なければダメだと言われている。市場は毎週木曜日に
開かれる。牛には一頭ずつ母子手帳のような登録手帳があって、移動するときは常に携帯
していなければならない。                            

 牛飼いをして、もっとも神経を使うのが糞の処理だ。匂いの問題がある。稲わらを混ぜ
ても乳牛の糞は柔らかい。黒牛の糞は固いので楽だが、乳牛の糞を運ぶときは垂れないよ
うに気を使った。近所の反対があると牛飼いは出来ない。理解ある隣人に恵まれ、認めら
れ、これだけ長い間牛飼いを続ける事が出来た。本当にありがたい事だと益雄さんがしみ
じみと話してくれた。感謝の心と気配りが益雄さんの牛飼いを支えたのだと思う。