山里の記憶14


道具を作る:久保槌男さん



2007. 12. 6



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 12月6日の朝9時半、武州日野駅前の久保鍛造所へ伺った。注文しておいた腰鉈(
こしなた)が出来上がったという連絡が来たので、それを受け取る為だった。秩父出身
の人間なら秩父で作った鉈を使うべきだと、秋田の若い鍛冶屋さんに言われてその気に
なって、9月に注文したものだった。当主の久保槌男(つちお)さんは80歳、座敷に
案内されて炬燵に入って話を伺った。「まあ、お茶でも飲んでゆっくりしてくんない」
勧められるままにお茶を頂き、野鍛冶の仕事について話を伺った。         

玄関横の縁側はショーケースで、様々なサンプルと写真がある。 皇太子殿下に造納した「剣鉈」の写真。

 「そうさねえ、昔はどこの村にも鍛冶屋があってねぇ、トンカン、トンカンやってて
、珍しいモンでもなかったけんど、今じゃあハァ秩父でうち一軒だけになっちゃったい
ねぇ。昔は鍛冶屋にも、うちみたいな野鍛冶から刀鍛冶、ノコギリ鍛冶、蹄鉄(ていて
つ)鍛冶とか色々あったけど、今じゃあ無くなっちゃったいねぇ。うちじゃあ畑道具、
山仕事道具、職人道具なんぞで200種類くらいの道具を作ってるよ」       

 野鍛冶の仕事範囲は想像以上に広い。鍛冶屋が鉄工所に変わっていく時代にあって、
農具の製造や修理、工具の製造や修理を依頼できる場所は無くなってしまった。道具は
作ってもらうものから、買って使い捨てるものへと変わった。昔ながらの農具や道具を
使いたい人は秩父地方で唯一となってしまった野鍛冶の元へと自然に集まってくる。今
では話を伝え聞いて各地から注文が入るようになった。              

 本来、農具や工具は使う人に合わせて作られるものだった。槌男さんが言う「昔から
、道具は使う人に合わせて作らなきゃあいけねぇ、と親父にいつもうるさく言われたも
んだった」例えば鍬(くわ)の刃の角度を決めるのは使う人の身長だ。4尺8寸の柄が
おへその位置に来るように角度を決める。この位置に柄がないと作業するのに無理が働
く。それ以外にも、石の多い畑か、急斜面の畑か、若くて力のある人か、腰の曲がった
おばあちゃんか等々で鍬の大きさや重さを変え、刃先の形や鋼(はがね)の硬さを調整
する。一つ一つ自分の手で作るからこそ出来る道具で、まさにカスタムメイドを実践し
ていたのが野鍛冶の技なのだ。大量生産で作られる道具とはそこが違う。      

 秩父の農具は平地の農具と著しい違いがある。岩槻の民俗博物館で平地の農具と比較
展示されたことがある。平野部・庄和町の農具、丘陵部・鴻巣の農具、そして山間地・
秩父の農具をそれぞれの地区の野鍛冶が製作して比較展示したのだ。鍬と唐鍬(とうぐ
わ)・万能(まんのう)の形状が著しく違う。山間地は幅が細く、先が鋭く尖っている
。丘陵地から平地に行くに従って鍬の幅が広がり、先が平らになっていく。万能は刃の
数が2本から4本へと増えていく。土が深く柔らかい平地では、一回で幅広く耕せる鍬
や万能が効率よく使える。しかし、この幅広の鍬や唐鍬では秩父の畑は耕せない。小鹿
野にある私の畑なども、土より石の方が多いような畑なので幅広の鍬では何の役にも立
たない。                                   

 豊富な種類の山仕事道具も秩父ならではのものだった。中でも「鳶口(とびぐち)な
ら日野に頼め」と言われたほど、先代左門次の評判は高かった。キヤンボウと呼ばれる
山仕事の達人が使う竹鳶はほとんどが久保鍛造所の製作だったという。キヤンボウは7
尺7寸の竹鳶に命をかけた。全身の力を込めて鳶を打ち込み、丸太を動かす。その鳶口
は次の瞬間にスッと抜けなければならない。鳶口の先、米粒ほどの大きさに命がかかっ
ていた。先が欠ければ自分が死ぬ。毎朝、キヤンボウは自分の金床を使い、焚き火で焼
いた鳶口を叩いて鍛えたという。他人が触ることすら許さなかった。そんな鳶口を独自
の工夫で作り上げたのが先代だった。土佐で買った鳶口を先だけ持ち込んで、打ち直し
てくれという人も多かった。                          

 鉈(なた)は打ち下ろした時に切れやすくするため、柄に角度が付いている。鋸(の
こぎり)も引きやすくするために柄に角度がついている。東大演習林から頼まれた、木
に登る為に足に着ける器具も作った。冬の間は枝打ちの鉈の注文が多く、夏になると下
刈り鎌の注文が多かった。しかし、山に入る人が少なくなり、チェーンソーや草刈り機
が主流になるに従って山仕事道具の注文は少なくなっていった。道具は大手メーカーの
分業製作による大量生産ものに変わっていった。                 

 他にも皮剥ぎ鎌、押し切り、ヤス、蕎麦包丁なども沢山作った。蕎麦包丁に関して槌
男さんは2つの製品についてよく覚えている。一つは注文の厳しい人からのもので、寸
法や形を厳しく注文され、柄は使う都度洗えるように分解できる形で、出来上がった重
さがちょうど1キロでなければならない、というもの。注文を受けたものの、途方に暮
れ、2年くらい音沙汰を無くし、そろそろ諦めただろうと連絡したら「久保さん、注文
主が撤回しない限り注文は生きてるんだよ」と言われ、覚悟を決めて作ったそうだ。も
う一つは10万円で蕎麦包丁を作ってくれ、と言われたもの。先に値段を決められるの
は困ったもんだった、と槌男さんは苦笑していた。                

工場に祀られた「金山様」鍛冶の守り神と言われている。 金山様の眷属であるムカデの藁人形が、ふいごに飾られている。

 槌男さんに工場を案内してもらった。工場の入り口には注連縄が張られている。工場
の中も注連縄で囲まれている。野鍛冶は一般的に金山様を祀っている。金山様とは鍛冶
の守護神、金山彦命(かなやまひこのみこと)のことで、不浄を嫌う神様なので四方を
注連縄で囲み、常に清浄な場にしている。入り口から入ると左手にスプリングハンマー
が据え付けられており、その先に横座が作られている。横座は主人が座り、焼き入れ、
成形を行う鍛冶の中心部だ。横座を中心に野鍛冶の仕事が動く。ふいごには金山様のご
眷属(お使い)と言われるムカデを藁で作ったものが飾られている。        

 見上げると神棚に金山様が祀られ、梁にはおびただしい数の剣が貼り付けられている
。これは毎年1月2日に行われる仕事始め行事で作られる「初打ちヒナ形」を金山様へ
奉納したものだ。「これがうちの歴史だいねぇ・・・」槌男さんが誰に言うともなくつ
ぶやいた。錆びて形もおぼろげな刀達がズラリとならんで見守っている。その数を数え
ようとしたがやめた。数えるまでもなく、見ているだけで久保鍛造所の歴史が伝わって
くるのだから数がいくつかは意味がない。                    

工場を案内してくれた槌男さん。 二代左文字作、秩父仕込み鉈。これが私の腰鉈になった。

 工場の外に出て日当たりの良い縁側で話を聞く。縁側はショーケースにもなっていて
、様々なサンプルが掲げられていた。その中の一つに槌男さんの指が向けられた。それ
は小さな両刃の鎌だった。「もともとは江戸時代に始まった流派で、初代が2連三星流
(にれんみつぼしりゅう)って名のってたんだいねぇ。あの刃のところに紋が打ってあ
るでしょ。二代目が一つにして三星流(みつぼしりゅう)になったんだけど、あの竹割
り鎌がうちの何ともの元なんだね・・・」三星流では槌男さんで五代をかぞえる。  
 そして「左文字」(さもんじ)の銘についても話してくれた。「親父の名前が佐門次
でそれを銘にしても良かったんだけど、ある人の助言で易やなんかで「左文字」がいい
っていうんで、それにしたんさあ。書いて見ると座りもいいんで良かったいね」   

 槌男さんは生まれた時から鍛冶を継ぐと決められていた。名前もその期待を込めて付
けられた。本人は子供時分から嫌で嫌でしょうがなかったと笑う。冬はあかぎれが出来
るし、どこもかしこも炭の粉で真っ黒になるし。本当は絵が好きで、学校を出たら上野
で映画看板の絵描きになったらどうかという話もあったそうだ。「何の因果かそのまま
鍛冶屋になって、もう80だからねえ」と笑う。しかし、絵が好きなのは今の仕事にも
生きている。鉈の地金部分にタガネを筆のようにして絵を描くのだ。タガネで強弱を付
けて打ち込み、老松の絵を描くのが得意で、皇太子殿下に造納した剣鉈にもその技が生
かされている。今は腰を悪くして自ら鍛造(たんぞう)することはない。後を継いだ利
美さんが全てをやっていて、槌男さんは鞘の製作などをしている。         

 槌男さんが出演したNHKの30分番組で、親子三代で鍛冶屋をやっていると紹介され
た。今の時代に野鍛冶という地味な仕事を継いでくれた息子さんに感謝していると言う
。また、跡継ぎが無く廃業していく多くの鍛冶屋さんと比べて、自分は幸せだと満足そ
うに微笑んでいた。鳶口の名人初代「左文字」、皇太子殿下への造納剣鉈を作った二代
「左文字」槌男さん、後を受けて今活躍中の三代「左文字」利美さん。利美さんが平成
の名工と言われるようになる日もそう遠くなさそうだ。