山里の記憶139


とおかんや:斉藤 進さん



2013. 11. 9



絵をクリックすると大きく表示されます。ブラウザの【戻る】で戻ってください。


 十一月九日、とおかんやの取材で小鹿野町三山の斉藤進さん(七十三歳)を訪ねた。と
おかんやとは、旧暦の十月十日の夜に行われる行事のことで、昔は盛んに行われていたが
今はやらなくなった。小学生の子供たちが、ワラ鉄砲で庭を打ち、歌を歌って駄賃をもら
うというものだった。旧暦の十日、今年は十二日に当たる。             
 この日は子供たちが待ちに待った日で、朝からワラ鉄砲を作って夜に備えた。小さい子
供には兄や父が作ってやった。ワラ鉄砲は、ワラの束の芯に里芋の茎や秋ミョウガの茎を
入れたりしてワラ縄で隙間なくきっちり巻いて作った。               
 木などに縄の先を結び、端の方から固く巻き固めたものがいい音がしたものだった。日
が暮れると、ワラ鉄砲を持った子供たちが集まり、耕地の家々を回ってワラ鉄砲で庭を叩
いて歌って回った。歌の文句は次のようなものだった。               

 とおかんや とおかんや                            
 とおかの晩はいい晩だ                             
 よおめし(夕飯)くったら うっぱたけ                     

 この歌に合わせて思い切りワラ鉄砲で庭を叩く。すると家の人が「ごくろうさん」と言
って駄賃をくれた。駄賃は十円とか五円とかだったが子供らにとっては大金だった。年長
者が駄賃を集めて、全部の家を回った後にみんなで分けた。             
 この行事は、畑を荒らすモグラを退治するというまじないだった。また、豊作をもたら
す畑の神様に感謝する行事だとも言われている。耕地によってずいぶん違いがある。大滝
での歌の文句は以下のようなものだった。                     
 とおかんや とおかんや                            
 朝そば切りに 昼だんご                            
 よおめし(夕飯)くったら ひっぱたけ                     
 これに「もひとつおまけにひっぱたけ」と加えることもあった。          

 私の子供時代は、小学生の男の子だけだったと記憶しているが、女の子も参加していた
地区もあるようだ。両神では男の子の組と女の子の組が別々に回ったという地区もある。
 また、吉田では、学校からお金をもらうことを禁じられた地区もあった。      
 両神の例では、駄賃は昭和三十五年に一戸二十円と決められた。その後、五十円、百円
、二百円、三百円と変化し、その後ノートや学用品を買って与える形に変わってきた。昭
和六十一年頃には長又と出原(いでわら)地区だけで行われていたようだ。      
 大滝では、一年の農作業が終わり「鍬洗い」をして、お祝いをする日だった。昔はそば
やぼた餅を作ったという。三山では大滝よりも暖かいので、まだ麦作りは最盛期に当たる
時期で、まだまだ農作業は残っていた。                      
 とおかんやを終えて、つるし柿作りを終え、麦作りを終えるとそろそろ八幡様の準備に
入る、というのが三山での十一月行事だった。                   

 家に伺うと、進さんはすでに準備万端で待っていてくれた。挨拶もそこそこに、庭でワ
ラ鉄砲作りが始まる。五本ほど昨日作ってみたと言って笑いながら、鮮やかな手際でワラ
鉄砲作りが始まった。                              
 進さんのワラ鉄砲は、ミョウガの茎を芯にする。そして巻くのはワラ縄ではなく、葛の
ツルを使う。「葛っツルが固く巻けて、いい音がするんだいね…」と言いながら、葛ツル
を家の鉄柱に結んだ。両手でワラ束を固く握って、葛ツルを巻き付ける。切れない程度の
強さで葛ツルを引っ張りながら、ワラ束を固く巻く。元から先の方に向かって巻き、三十
センチ程残したところで、固く縛って止める。                   

葛ツルでワラ束をきつく巻く。固く巻けばいい音が出る。 取っ手はワラを足して長くして輪に作る。これに藤ツルを巻く。

 残ったワラ先を三つに分け、真ん中を切り取って取っ手を作る。左右に分かれた穂先を
しめ縄のようになう。先にワラを足して長く縄になう。二本の縄を輪に重ねて巻いて止め
る。この取っ手を、葛ツルや藤ツルで巻いて補強するのが進さん流だ。        
 あっという間にワラ鉄砲が出来上がった。時間にして三十分くらいだっただろうか。出
来上がったワラ鉄砲で地面を叩いてみたら、いい音がした。確かに、ワラ縄で巻くワラ鉄
砲よりもいい音がする。昔、これを知っていたら自慢できたのにと少し残念に思った。 

出来上がったワラ鉄砲を試し打ちする進さん。いい音がした。 手伝ってくれた子供たちに駄賃の大学イモを渡す。

 進さんが生まれて育ったこの耕地は、三山下郷の小金沢(こがさわ)という耕地で、昔
は八軒程の耕地だった。当時の子供は、五〜六人で耕地を回ったものだという。    
 今はやらなくなって久しいので、助っ人を頼んでくれていた。孫の斉藤柊(しゅう)君
(八歳)と友人の黒沢良太朗くん(七歳)、本間慈雨(じう)くん(八歳)の三人だ。 
 小学生の行事という事で、特別にお願いしてワラ鉄砲を打ってもらった。      
 三人が勢いよくワラ鉄砲で地面を叩く。「とおかんや、とおかんや、とおかの晩はいい
晩だ、よおめし食ったら、うっぱたけ」と歌いながらワラ鉄砲で地面を叩く。おそらく歌
の意味はわからないだろうが、とにかく子供行事の再現が出来た。          
 協力してくれた三人に、昔の話を少ししたのだが、特に興味はなさそうだった。協力し
てくれたお礼にと、進さんがワラ鉄砲をやると嬉しそうに持ち帰って行った。     

 行事再現が一段落したので、お茶を飲みながら進さんに昔の話を聞いた。      
 進さんは昭和三十三年に小鹿野高校を卒業した。当時、ほとんどの生徒が都会へ就職し
たのだが、進さんは家で農業をやると決めていた。コンニャクが一俵一万円になる時代だ
った。二クラスあった中で農業を継いだのは進さんただ一人だった。         
 自ら選んだ道だったが、農業だけで四人の子供を育てるのは大変だった。子供を育てる
為だけに働いたといっても過言ではない。                     
 コンニャクは相場があって、良いときもあれば悪いときもあった。ひどい時は一年間に
収入が百万円に届かない時もあった。良かったときに遊ばずに、貯金しておいたお金を悪
い時に使うように心がけた。ナスやキュウリやインゲンもやったが、一番大きかったのは
コンニャクだった。生玉での出荷だったので、相場を見ながら出荷することが出来なかっ
た。相場の影響をモロに受けてしまった。                     

 毎年秋、コンニャクの生子(きご:種芋)を二階にしまい終えると体が空く。そんな時
には小鹿野にあった友人のサッシ屋さんで働いた。また、夏の作業も消毒だけだったので
体が空いた時はサッシ屋さんで働いた。「コンニャクだけでなく、働けるとこがあったん
で良かったいねぇ…」と、当時を振り返る。                    
 大変だったでしょう、と聞くと「農家っていうのは大変は大変なんだけど、自分でやる
事だから、特別大変だってことはなかったいね…」と前向きな言葉が返ってきた。   

行事の再現を終えて、お茶を飲みながら昔の話を聞いた。 進さんが作ったすばらしいスカリが吊ってある。羽根や毛皮も。

 逆に、楽しかったことは? と聞いたらすぐに「鉄砲撃ちかな」という答え。進さんは
子供の時に事故に遭い、左目が見えなくなってしまった。左目が見えないので、車の免許
が取れなかった。それを不憫に思った父親が「鉄砲でもやってみろい…」と言ってくれ、
狩猟の道に入った。これが面白かった。                      
 照準を合わせるのは右目なので、狩猟に問題はなかった。ヤマドリやコジュケイを狙う
羽物猟師(主に鳥を狙う猟師)となり、ポインターを使って、主に一人で野山を駆けまわ
った。毎年、狩猟が解禁する十一月十五日をワクワクしながら待ったものだった。   
  そんな進さんが一番楽しかったのは、終猟会の時にみんなでやる肉寿司作りだった。
獲物のヤマドリやウサギ、キジの肉を刻む。ニンジンとゴボウも刻んで、甘辛く煮る。そ
の煮汁でご飯を炊く。いなり寿司のように作るので、油揚げを甘く煮る。ご飯と肉を混ぜ
て油揚げに詰めれば肉寿司の出来上がりだ。                    
 ウサギの骨やヤマドリの骨は汁にする。いい出汁が出る。このウサギの骨に付いた肉を
しゃぶりながら酒を飲むのが最高だった。肉寿司はヤマドリなどの獣臭がするもので、ダ
メな人もいたが、進さんはその独特の匂いがたまらなく好きだった。         

 とおかんやを終えた三山地区では十二月の八幡神社例大祭の準備に入る季節になる。こ
のお祭りこそ、一年で一番楽しみにしているお祭りだ。大勢の親戚がやってくる。その親
戚を迎える為に、何日も前から布団を干し、料理の材料を集めて処理をする。     
 そんな楽しいお祭りが今年もやってくる。進さんの忙しい日々が始まる。