山里の記憶131


岩殿沢石の話:高野正男さん



2013. 5. 24



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 ジオパーク秩父構想というものがある。ジオパークとは、地域固有の地質や地理、生態
系、歴史、文化などの地域資源を整備して「地球と人間のかかわり」を主題とする市民公
園のこと。地質学的に秩父は大変珍しい地形や岩石に恵まれており、その特徴を生かして
秩父の地域全体を公園として整備しようという構想だ。               
 ユネスコの世界遺産などにも通じる、地域整備構想のひとつだ。          

 ジオパーク秩父といえば、その解説の中に『岩殿沢石』という名前が出ているのに驚か
された。岩殿沢というのは、私が生まれた耕地の名前だ。札所三十一番の観音院近くで産
出された石だという。以下、ジオパークの解説にある岩殿沢石の説明文。       
『岩殿沢石で作られた石仏……                          
秩父の石仏の多くが「岩殿沢石」と呼ばれる砂質凝灰岩(火山灰を含む石)でつくられて
います。凝灰岩は刻みやすい硬さで軽く、石碑や墓石・石臼などにも使われています。秩
父盆地西北隅の小鹿野町飯田、札所三十一番観音院付近の山で採掘されました。』   

 恥ずかしながら、岩殿沢石という名前がついているとは知らなかった。観音様の登り口
に、巨大な石の仁王様が二体建っており、その石が岩殿沢石だという。        
 そんな岩殿沢石の切り出しについて、耕地の中に知っている人がいると聞いて取材を申
し込んだ。取材したのは高野正男さん(九十歳)。正男さんに話を聞くと、どうやら、お
じいさんの時代に、石の切り出しをやっていたらしい。明治時代の話だ。       

自宅で昔のことや、観音様のことを話してくれた正男さん。 若いときは山仕事をしていた。ヒノキの巻き枯らし作業をしている。

 正男さんのおじいさんは、切り出した石を運ぶ専門だった。おじいさんの当時は観音山
ではなくて、もう少し下流。昔、氷池があった場所で、川向こうの山から石を切り出して
いた。発破を使った本格的な切り出しをやっていたという。大日堂の百メートルくらい上
の場所に、石切場用の鍛冶屋があって、そこで道具を作っていた。          
 石を運ぶのは、小型の大八車だった。リヤカーくらいの大きさで、石は三個か四個くら
い運んでいたという。木の車輪に金輪をかませたもので引くのだから、とにかく重い。そ
の重さを、どこまで運んだのか?                         
 当時、旧秩父橋の橋脚工事用の石を運んでいた。小鹿野から秩父に向かう千足峠(せん
ぞくとうげ)が急で、越えることが出来ず、吉田から太田を回って秩父橋まで運んだとい
う。本当に大勢の人がゾロゾロと運んでいたそうだ。すごい光景だ。         
 帰りは空荷なので千足峠から帰った。                      

 おじいさんが何度も言っていた「怖い話」がある。石を運んでの帰り道。千足峠で休ん
でいた時のことだった。峠の下から、押し込み強盗でも働いた後だったのか、形相を変え
た男が二人、抜き身の刀を振り回しながら走って来た。怖くてあわてて逃げたが、狭い道
で男達が荷車に体当たりして、ぶつかりながら駆け抜けて行った。あの時は生きた心地が
しなかった……とよく言っていた。おじいさんは無事だった。            
 旧秩父橋の工事用だけでなく、秩父のあちこちに石を運んだ。石仏用や墓石用、多くの
岩殿沢石が、正男さんのおじいさんの手で運ばれた。もちろん、大勢の石運び人夫がいた
事は間違いない。石仏、墓石、石社、山神様、石段…様々なものが岩殿沢石で造られた。
 札所四番金昌寺の石仏群も多くは岩殿沢石で造られている。            

 話しているうちに正男さんが「こういう本があるんだいね…」と言いながら紫の帛紗に
包まれた古い本を出して見せてくれた。それは、京都の出版社が大正時代に、五十冊だけ
発行した蛇腹式の本で「諸国霊場・御詠歌壱千題」という表題が付いている。     
 そして、その中に秩父札所三十一番の縁起が記されていた。その縁起は以下の通り。 
『秩父三十一番 正観音
鷲窟山(しゅうくつさん)観音院 正観音堂 縁起 本多次郎親常(ちかつね)    
鷲窟山観音院の本尊は霊験殊にあらたかなりしが将門の兵乱に神社仏閣破壊されて本尊の
在所を失ひしが後年秩父の重忠当所に狩りし家臣本多の次郎に巣にこもる鷲を射させんと
してはからず巣の中より感得しければ重忠御堂を建立して信仰せられけるゆえにこの奧の
院には重忠の馬つなぎ親常の矢のあとなどといふ古跡あり』             

耕地中の山の神を知っている。時には崩れたのを修復する事もある。 観音院の入り口。日本一の石造り仁王尊が両側に立っている。

 自分の家の奧にある観音様の縁起など何も知らなかったので、本当に驚いた。子供の時
に遊び回っていた観音様だった。こんなにも由緒あるものだったとは……。      
 正男さんと観音様の話で盛り上がる。九十歳とは思えない記憶力でいろいろな話を聞か
せてくれる正男さん。中でも、仁王様の石を降ろした時の話が面白かった。      
 山門の石の仁王様は観音山の石を使って作られた。四メートルもの仁王様二体を観音山
の頂上付近で粗彫りし、それを縄でブレーキをかけながら下まで降ろした。      

 これもおじいさんから聞いた話だという。仁王様は明治元年に奉納されているので、作
られたのは江戸時代になる。だから、おじいさんも又聞きの話だと思う。       
 今の納経所の近くにあった、太さ一メートル以上もあるモミの木に縄を巻き付けて、ブ
レーキをかけながら、コロで沢筋を降ろしたのだそうだ。距離、約二百メートル。いった
い何トンあったか知らないが、すごいことをやったものだ。             
 そのモミの木は、皮が縄の摩擦でむけてしまい、そのまま枯れてしまった。     
 鷲窟山観音院山門の石造り仁王尊は信州の石工、藤森吉弥一寿の名作で、像高四メート
ル、本邦第一と称されている。                          
「観音様の周辺では昔から、いろんな形で死んだ人がいるんだいね。明治の末だったか、
大正だったか…。おじいさんからもいろいろ聞いていたしね……。お天狗様の社の下に四
つほど石がいけてあって、そこに行くと必ず、お米を供えて供養したもんだいね…。何で
お米かって? そりゃあ、線香なんかやったら山火事になっちゃうからさぁ…」    
「観音様は明治二十六年の二月に焼けたんだいね。ろうそくの火が幕に燃えついて焼けた
んだい。だから火は気をつけたいね…」                      

高さ四メートルの仁王様。石造りならではの迫力だ。 二百九十六の石段を登ると、鷲窟山(しゅうくつさん)観音院の観音堂に着く。

 今年九十歳になる正男さんの話も聞いてみた。生まれたのは大正十二年。五歳の時に家
の下のコンクリート橋が出来た。その時にお祝いで、やぐらを二つ組んで、龍勢を一日上
げたという。正男さんの家やあちこちに龍勢の筒が残されているのはその時のものだ。 
 学校を出てすぐに、両神のトンネル工事現場で働いた。その後、こっちの方が金になる
からと父親に言われて木こりをやった。                      
「阿熊や立沢の方で千石の余、伐り出したいね…。杉の皮をむいて、枯らしてから伐るん
だいね。ご神木も伐ったよ。三山の古鷹神社や八幡様のご神木も伐った。尾の内のお天狗
様のご神木も伐ったいね。みんな写真があるはずなんだけど、どこにあるんだか……」 
 山仕事の後は、ずっと大工をやった。                      
 結婚したのは昭和十九年。小鹿野大火のあった二月一日が結婚式だった。お嫁さんは、
小鹿野大火の混乱の中、吉田の小坂下(こざかけ)から歩いて嫁に来た。長年連れ添った
奥さんだったが、平成十年に他界し、その後はひとり暮らしになった。        

 鉄砲撃ちもやった。二十年間、昭和四十八年までやっていた。平成五年に、大日堂の上
に鳥獣慰霊碑を建てて供養したものだった。                    
 正男さんは耕地内の山の神の場所を全部覚えている。山を回って、崩れた山の神の修復
などもしている。昔の山道はすでに荒廃して尾根に出るのも難儀だが、あちこち回って山
の神の写真を撮って残している。どれも貴重な写真だ。               
 平成十五年には観音院の奥の院西で崖の途中にある鷲の巣を撮った。ロープで下りて撮
った貴重な写真だ。観音様の縁起にある鷲の巣はこの岩場のものだったのかもしれない。
 平成二年と三年、二年間かけて四国八十八箇所を巡礼した。その時は全部で百人以上の
人が集まったが、みんな達者なものだった。                    
「息子夫婦がいるけど、いっさいがっさい全部自分ひとりでやってるよ。今はまだ車に乗
れるからいいやね。そろそろ電気自動車でも買うべえかと思ってるんだいね…」    
 まだまだ元気な九十歳の言葉だ。