山里の記憶125


日窒鉱山の話:品川 正さん



2013. 2. 3



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 日窒鉱山は私にとって謎の場所だった。昔、四歳か五歳くらいのころ、母の実家の裏山
で空き地に寝ころんで見上げた空に、ゴンゴンゴンと音が響いて、大きなバケットが上空
を動いていた。次から次にやってくるバケットを飽きずに眺めながら、山の向こうにいっ
たい何があるのか不思議な気持ちになったことが忘れられない。これが日窒鉱山から鉱石
を運ぶ索道だったことを後で知った。                       
 両神山の裏側にある鉱山、日窒鉱山に初めて触れた幼い日の出来事は、今も脳裏にはっ
きりと焼き付いている。そんな日窒鉱山に生まれ、最盛期を鉱山の試錐(しすい)員とし
て過ごし、退職するまでの十八年間働いていたという人の話が聞けることになった。  
 長い間願っていて、やっと実現した取材だった。向かったのは小鹿野町の下小鹿野。品
川正さん(七十三歳)がその人だった。                      
 正さんはにこやかに迎えてくれて、すぐに鉱山の話になった。その話は多岐に渡り、あ
っという間に時間が過ぎて行った。あまりに濃い内容のため、一度でまとめることをあき
らめ、鉱山そのものの話と、鉱山での暮らしという二つの切り口でまとめた。     

炬燵で鉱山のボーリングについて説明してくれる正さん。 実際に正さんがボーリングで掘り出した磁鉄鉱の鉱石。

●日窒鉱山の話                                 
 日窒鉱山の歴史は古い。古く鎌倉時代には鉱山として発見されており、慶長十五年には
金や砂金の採掘が行われていた。武田信玄が金を求めて採掘したという話もあるが、当時
の技術ではさほどの採掘は出来なかったようだ。明和二年には平賀源内が金や銀を求めて
調査したと言われている。                            
 明治時代後半に本格的な鉱山調査が行われた。日本が戦争状態になり、金属なら何でも
いいから必要とされた時代だ。明治四十三年に東京の柳瀬商工が鉱山権を買収し、鉱山開
発を行った。大正五年には鉱山と皆野を結ぶ索道が建設されている。         
 今のような形で、本格的に鉱山開発が行われたのは、昭和十二年に日窒鉱業が鉱山権を
買収してからだ。その二年前には小倉沢小中学校が開校している。鉱山に多くの人が集ま
ってきていた。そして、昭和十五年に秩父鉱山として本格的な採掘が始まった。    
 正さんは、その昭和十五年に鉱山の中で生まれた。まさに鉱山の歴史が塗り替わり、本
格的に成長を始めるその時に生まれた。鉱山の歴史と人生が重なって歩き始めた。   

 その後の日窒鉱山の概要をざっと書くと、以下のような流れとなる。        
昭和二十五年 新会社として日窒鉱業を設立。                   
昭和三十五年 六十年代 亜鉛、磁鉄鉱など採掘、最盛期には年五十万トンを出鉱する。
昭和三十七年 他鉱山から従業員受け入れによる人工増加により社宅建設ピークとなる。
昭和四十年 鉱山の最盛期、人口三千人を数える。小中学校生が四百人を超える。   
昭和四十四年 珪砂の採掘を開始した。                      
昭和四十八年 秩父事業所の子会社化で実質的な閉山となる鉱山の規模縮小へ。    
昭和五十三年 完全な非金属鉱山へと移行。                    
昭和六十年 小倉沢小中学校廃校となる。                     
現在は石灰石のみを扱う鉱山として稼働中。                    

昭和三十年代の日窒鉱山、選鉱場周辺の写真。対岸の山から撮った。 東洋一と言われた架空索道の写真。八丁峠から納宮方面を望む。

 鉱山で中学校を出た正さん。鉱山に就職を決め、昭和三十年の四月一日に入社した。配
属は探査係だった。鉱山では十八歳まで坑内に入ることが許されず、外で電気探査や磁力
探査をしていた。十八歳から本格的に坑内での探査作業を行うようになった正さん。当時
最先端のボーリングマシンを駆使して鉱山全体の地質調査を行った。         
 先端のビットの実物を見せてもらった。ビットには三十六ミリと四十六ミリのビットが
あり、鉱山では主に三十六ミリのビットを使っていた。ボーリングマシンは縦にも横にも
掘れるもので、千メートル掘れる機械、四百メートル掘れる機械、百五十メートル掘れる
機械などがあった。大きなマシンは口径も大きかった。               

 鉱山の仕事は昼夜二交代制で行われた。一番方は朝八時から夕方四時までが定時だった
が、だいたい三時には切り上げていた。三時に発破をかけるという時間が決まっていたの
で発破をかけて一番方終了という流れだった。発破は一番方の鉱夫が自分で仕掛けて、自
分で点火した。二番方の鉱夫が鉱石の運び出しをやった。その二番方の定時は夕方四時か
ら夜中の十二時だった。                             
 発破の後、ガマという鉱石の空洞が見つかることがあると、とても良い条件の鉱石が採
れたものだった。黄鉄鉱の結晶、完全体の水晶、ザクロ石、亜鉛鉱の結晶などが採れた。

 鉱山では金も産出されていた。糸金と呼ばれる糸状の金鉱脈があった。       
 糸金の鉱脈でぶら下がった鉱石があったという話も聞いたことがある。柔らかくて強い
糸金ならではの逸話だ。この金鉱脈が作り出す砂金も昔から採られていた。      
 鉱山で作った金の延べ板は、秩父警察の警官の護衛付きで背負子で運ばれた。鉱山の給
料も警官の護衛付きで運ばれた。秩父警察も鉱山へよく出入りしていた。       

 古い鉱区の大黒坑は大きな縦坑があり、ゲージと呼ばれるエレベーターで入坑した。地
上から三十メートルの位置に一番坑の横穴があり、その下へ同じ間隔で二番坑、三番坑、
四番坑と続き、最も深い場所にポンプ室があった。ポンプは、二十四時間常時坑内から湧
出する地下水を排水していた。                          
 日窒鉱山と中津鉱山の間は地下トンネルでつながっていた。十両編成のトロッコがその
中を走っていた。鉱山から運び出された鉱石は選鉱場に運ばれた。鉱石はクラッシャーで
砕かれ、昔は女工さんがズリ石拾いをしていた。砕かれた鉱石は更にボールミルという粉
砕器で粉々にされ、薬品を使って順番に選り分けられた。そして、その泥水を脱水するの
が最後の工程だった。脱水された泥は沈殿池に集められた。             

鉱山で横ボーリングをしている作業場の写真。 縦ボーリングをしている正さん。朝日新聞の記者が撮ったもの。

 当時、索道の延長距離では東洋一だと言われていた。東洋一と呼ばれた索道は鉱山の生
命線だった。道路事情が悪く何でも索道で運ばれたから、索道が止まるということはあっ
てはならない事だった。                             
 索道の支柱横に監視小屋があり、見張りがいた。索道が脱線しないように、また、脱線
したらすぐに止められるよう見張っていた。新聞も食べ物も何でも索道で運ばれた。  
 索道は鉱山から八丁峠を越えて河原沢に下り、納宮に出る。納宮は国道との中継点で、
ここで荷物を下ろすこともあった。納宮から両神の須川で中継され、三峰口まで続いてい
た。索道で運ばれた鉱石は、三峰口から貨車で川崎の日本鋼管へ輸送された。     
 そんな重要な索道のメインワイヤーが切れたことがあった。三十六ミリの太いワイヤー
が八丁峠で切れた。バケットのお陰でワイヤーが飛び去ることはなかったが、その修理に
は鉱山の人全員がかり出された。                         
 索道は鉱山の生命線だ。切れたら何もかも止まってしまうので、修理は全てに優先され
た。ちぎれたワイヤーにつないで引っ張るための十六ミリワイヤーを束にして数珠つなぎ
に担いで一列で山に登る。ちぎれた端を十六ミリワイヤーに繋ぎ、牽引する。大変な作業
だった。                                    
 鉱山全員がかり出されたことが他にもあった。正さんが小学六年生の時だった。山火事
が起きたのだ。鉱山にはダイナマイトや爆薬が多く貯蔵されいる。火薬庫に引火すると大
惨事になるから火事だけは怖かった。火薬庫に火が走りそうになると、一山越えた場所に
ある爆薬を運び出す人、消火する人、自分の家の屋根に水を掛ける人、それぞれが持ち場
を死守した。当時の屋根は杉の皮で葺かれていた。漬物樽に水を汲んで屋根にまいた。 
 中には火除けのまじないと称して、女性の赤い腰巻きを旗にして屋根に掲げる人なども
いた。火事は四日間燃えて鎮火したが、火薬庫を焼くことはなかった。        

 鉱山の仕事は危険と隣り合わせだった。落盤事故で命を落とした人もいる。正さんも従
兄弟を落盤事故で亡くしたし、目の前で事故が起きて知り合いを亡くしたこともある。今
も鉱山には大きな慰霊塔が建っている。                      

 危険と隣り合わせの職場だからこそ、安全管理は徹底されていた。安全管理の基本を徹
底して仕事を全うしてきた。正さん自身が謙虚に仕事や環境と向かい合ってきたからこそ
全う出来たのだろう。そして昭和四十八年、正さんは山を下りた。          
 鉱山時代を思い出すことは懐かしいことだ。今はもう帰れない場所だからこそ愛おしい
のだと思う。正さんは一度ゆっくり鉱山跡地を訪れたいと思っている。懐かしいあの頃を
思い出し、自分の原点を見つめるために。