山里の記憶124


特別寄稿「ふる里の思い出」:清水親子(ちかこ)さん



2013. 2. 15




ある時ある日谷地平  暮らしと遊び

 頑固おじいさん

 骨太で背の高いおじいさんは、山林の仕事をしていました。大滝村でもまだ原生林の多
い時代です。                                  
 美濃の国(岐阜県)から旅をして来たという、岩井岩次郎こと私の祖父です。どう読ん
でも頑固で強そうな名前ですが、恋と愛は人並みだった様でした。中双里の宿屋の娘『む
ね』に恋して、むねの両親の反対を押し切って無理矢理連れ出して結婚したとか、むねは
、可愛い上品な娘だったとか聞いています。                    
 若かった頃のおじいさんは頑丈でしたから、山歩きも達者で原生林の伐採も人に負ける
ことがいやで、人一倍も働いたそうです。それに、声が大きくて怒鳴り調子でしたから、
こわい人に思われていた様です。                         
 むねの実家は名字が山中なので、岩井を捨てて山中を名字にしました。愛する嫁に頑固
な岩次郎青年も折れたのでしょう。二人の愛の結晶、長男に高雄を生み次々と六人の子供
に恵まれました。                                
 私が小学校二年生の頃の事、おじいさんが二階の窓の板の間から足をすべらせて階下に
落ちました。土間に竹籠があり、運悪く竹籠の芯に太ももを刺してしまったのです。その
後腰痛に悩まされ病の床に就きました。五十四・五歳くらいだったかと思います。   
 病症に就いてからの世話は、息子の嫁(私の母)き江がよくしていました。き江は真白
なやわらかいおかゆを作って寝床まで運び、食べさせたのです。麦飯を食べている私らは
、おじいさんだけが米のおかゆなので、うらやましく思ったものです。        
 き江は百四十二センチ程の小さな体です。山村育ちは体が小さくても、丈夫で勝ち気な
性分がき江を大きく見せるのでしょうか、それとも、私が子どもだったせいか大きく見え
ました。                                    
 家の中にお風呂場を置かない時代、どこの家でも裏庭などに小屋を建てそこに風呂場を
作りました。燃料は近くにある豊富な薪を使ったのです。私の家では横に湧水が出ており
夏でも涸れる心配がありませんでした。湧水のでる場所に井戸を設け、その下手に風呂場
が出来ていました。風呂までは竹を割ったといで水を流し込むので、水を入れるのには便
利な反面、入浴するには、段々のある坂道でしたから非常に大変でした。       
 き江は大きな体のおじいさんを背中におんぶしては入浴を手伝いました。私は、大きな
体が小さな背中に乗っかって、と子ども心に思いましたっけ!            
 おばあさんはどうしておじいさんをおんぶしないのかなあ、と不思議に感じていました
。私は大きくなるに従い意味が分かる様になりました。おじいさんは寝ていて可愛想な人
と思ってはいるのでしょうが、おばあさんにはそばに近寄って怒鳴られるような気がして
、思うように世話が出来なかったのです。寝ている姿も頑固に見えました。      
 私たちがもっと甘えてやればよかった、孫のやわらかな体に触れてくれたらよかった。
きっと優しいおじいさんだったかも知れません。今、私が祖父母の年代、五十五歳近くな
り、孫と遊ぶ時亡き祖父母を想い浮かぶのです。                  

・・・・・文の途中で・・・・・                         
 私の先祖は古いことはよく知りません。塩沢に家を建てた人が、祖父母で父が生まれ、
き江と結婚し、私を長女に弟二人が生まれて私たちが三代目ということになります。私は
六つくらいの事からは覚えがありますが、それ以前のことは全く覚えておりません。  
 中津川にもダムが出来るので、滝の沢、浜平、塩沢地区の人々は村を離れることになり
ました。永年住み慣れた村を去ること、また生まれ育った土地が失われることは淋しいこ
とです。急に小さかった時の事、今は亡き人々が一生懸命に生きた時代を思い出しました
。私は、幼かった時代多数の人々にお世話になりました。塩沢を失いたくない気持ちで一
杯です。                                    
 時代は変わって行きます。様々な思い出が人々により異なると思いますが、私は七、八
歳からの事を記しておきたいと思います。                     
 もうすぐ湖底となる塩沢に想いをはせて……                   


 きよじいさん                                 

 集落から少し離れた細い坂道を十分位登ると、きよじいさんの家がありました。集落よ
り高い所の一軒やでさびしそうに見えます。                    
 きよじいさんには、四人の子どもがいました。長南武さん、長女梅えさんは働きに出て
いて家にはおりません。私より年上の勝義さんと弟の日吉丸君の四人暮らしでした。勝っ
ちゃんは静かな落ち着きのある子でした。日吉丸君にとっては迷惑な時もあったと思いま
す。村の子供らは、「ひよ、ひよ」と呼びました。                 
 ひよ君は、長い棒を刀の代わりに持って腰に差したり、抜いて振り回したりして遊ぶの
でした。あたしは童話の中の日吉丸とひよ君が同じ人物のように思えました。坂道を駆け
て来る姿は小猿の様で可愛い姿でした。                      
 きよおじいさんの奥さんは、おとくさんという人です。おとくさんは、毎日天秤棒に二
つの桶をつるして、片道七、八分もある大ぶろ沢まで水を汲みに行きます。囲炉裏には赤
々と火が燃えており、天井から魚形の古びた自在鉤を下げ、鉄瓶が煮えたぎっています。
 暑い夏がやって来て雨が降らない日が続くと、人々は毎日空を眺めては雨の降るのを待
ちます。きよおじいさんは、天に向かって大きな声で、集落全域に聞こえる声を張り上げ
て雨乞いをするのです。                             
「天の神様ー雨を降らせー村の者達に水をくれー土や作物に雨をくれー」       
その声は天にも届く程大声でした。                        
「おおーい、おおーい」                             
私の胸の奥深く今も聞こえて来るのです。                     
 二月四日節分の豆まきです。外には粉雪の舞う午後四時頃から           
「福は内いー鬼は外うー。鬼の目玉をぶっつぶせぇー」               
と、大きな声が集落中に聞こえてきます。毎年一番早く豆まきをする家が、きよおじいさ
んの家なのです。                                
「ほら、きよおじいさんが豆をまいたから、おらが家でもまくか」          
と、とうちゃんが負けない声で豆まきを始めます。母は、いわしを焼いたり、大巨の枯れ
枝には、いわしの頭を刺したりして入り口の柱に魔除けとして飾っておくのです。家の中
は豆つぶだらけ、自分の歳の数だけ拾って食べます。どこの家もなごやかな様でした。 
 二月は大雪の降る月ですが、三月をすぐそこに迎えられるので、家族が囲炉裏を囲んで
楽しく過ごせる月なのです。                           


 隣の町田屋                                  

 私の家の隣は駄菓子屋です。障子紙を張った入り口の戸を開けると、目の前に黒砂糖で
出来た甘そうな黒飴が菓子瓶の中にあります。白、赤、青、黄色ときれいな飴もあります
。白い棒の飴の中心に男の子の絵がある金太郎飴もありました。小さな手に何銭かのぜに
をもらって元気よく                               
「売ってくんなあ」                               
と入り口を開けると                               
「どれ、どれ」                                 
と言って笑い顔でおばあさんが出て来て、小さな袋に飴を入れてくれます。うれしくてう
れしくて飴を口いっぱいに入れて遊ぶのです。                   

 集落の人々は、町田屋のおじい、おばあと呼び親しんでいました。         
 町田屋のおじいさんは、歩いて一時間以上もある山(川原畑)に畑を耕しています。 
畑には野菜や大豆、粟、ひえなど沢山作っていました。きれいな花も作っており、温かそ
うな金仙花の花は、石垣のすみで春の空気を吸いオレンジ色を一段と濃くし、金魚草は背
を伸ばし沢山の花を着けています。山百合、菊、季節の花が咲く頃はいつも母に持って来
てくれたものです。私は山野を歩き、やなぎらんなどに出逢うとおじい、おばあを思い出
します。                                    
 おばさんは背が低く細くても、こまごま働く可愛い人でした。私が大人になって知った
のですが、おじいさんの二号だったそうです。静岡県生まれの人だとか、仲むつまじい意
味がわかりました。                               
 二人には末息子に忠さんいう十四、五歳のお兄さんがいました。忠さんはにわとりを何
羽も飼ったり兎も飼っていました。魚つりが好きで、家の下の川原に魚をつりに行くので
す。夏の夜はカンテラを下げて夜魚を突きに行くこともありました。家の手伝いをよくす
る忠さんは、お風呂を沸かす薪を短く切り、細く割ってきれいに積んでおきました。私に
は優しいお兄さんに思えました。幼い私が覚える頃はいつの間にか東京に働きに行ってし
まいました。                                  


 湧井戸                                    

 夏は冷たく冬温かい地下水が何十年経っても涸れる事なく湧いています。底にはきれい
な川砂利を敷きつめ、平らな石を積み重ねて屋根にしたこの井戸は、谷地平住民の生命源
です。大きなジシャグレの木が井戸の上に根を張り可愛いく黄色の花を咲かせて春を告げ
てくれるのです。                                
 集落の人々は、野良仕事に忙しくなります。井戸端の家の里ちゃんの所も芋作りに勢が
出ます。里ちゃんはお母さんと二人暮らしです。お姉さんはお嫁に行き、お兄さんは働き
に出ている様です。里ちゃんのお母さんは、さわのさんという人です。お父さんは戦死な
さったそうです。上のお兄さんも戦死されたとのことで、大変悲しい日もあったでしょう
が、さわのさんは一生懸命生きて来られました。里ちゃんは私より年上で十二歳位でした
。村の子どもは、大きい子も小さい子も一緒に遊びます。              
 天気の良い日は川で遊んだり、野山で遊びますが、雨降りの日は里ちゃんの家が遊び場
です。鬼ごっこやかくれんぼをして、戸棚の中のふとんなどはめちゃめちゃになりますが
、さわのさんは怒りません。こわい人のいない家は子ども達の天国でした。      
 里ちゃんのお手伝いはお風呂の用意です。井戸の水を汲み、木を割ってお風呂を沸かす
のですが、遊び仲間も時々バケツで水を汲み手伝ってやります。夕方になると里ちゃんと
一緒に風呂に入ってから家に帰ることもありました。                
 初夏の山々は緑が濃く、山畑では野良仕事に大人達は一生懸命です。子ども達は三時に
食べるジャガ芋を洗って塩ゆでにします。掘りたてのジャガ芋は巾二センチ、長さ五十セ
ンチの板を使って桶の中でゴリゴリ洗ってやると、薄い皮がきれいにむけます。それを湧
き水で洗って煮るのです。井戸端は子ども達のおしゃべりでにぎやかです。      
 夏には冷たく喉を潤おし、秋には肌に温かくなる水で大根や白菜洗いが始まります。お
正月が来ると、誰がお供えするのか白い半紙に鏡もちとみかんが、雪の中の水神様に供え
られております。                                


 乳牛                                     

 谷地平のはずれの、おまさん(ますえ)の家では大きい乳牛を三頭飼っています。おま
さんの父は恵太郎さん、母はおみきさんと言いました。恵太郎さんは川向の日なた山に大
きな段々畑を耕しています。毎日牛の餌に野山の草を刈り、しょいこ(背板)に山程背負
って来ます。                                  
 おまさんは高等学校を卒業したばかりのお姉さんです。よく手伝いをします。牛の餌の
草を押し切りきざみ、桶に入れて牛に食べさせていました。夕方には乳しぼりがあります
。大きな牛の足を四本柱にしばりつけて、牛乳をシューシューとしぼりますと、濃い牛乳
がバケツ一杯になります。私は遠く離れて見ていたものです。            
 おまさんは働き者で、父母の手助けをよくしました。お勝手には大きな水がめがあり、
食事の仕度をする水を入れるために、井戸からつるべを使って何回も汲み上げるのです。
風呂の水もこうして汲むのですから、大変な重労働だと思いました。         
 塩沢と谷地の子ども達は、庭の広いおまさんの家が遊び場でした。缶けりをしたり、鬼
ごっこをしたり、男の子達は桑の木に登ったりしました。黒くみがかれた縁側で女の子は
お手玉(当時はおなんご)をしたり、ビー玉の取りっこをしました。塩沢から菊ちゃん(
板屋の子)達ちゃん豊さん孝子ちゃん里ちゃん好子さんに私と弟の嘉親などの仲間が集ま
るのでした。                                  
 かくれんぼをします。鬼が決まると皆思い思いの処にかくれます。小屋の中でむしろを
かむる子、便所の中、お風呂のすみっことか、牛小屋のワラの中などです。誰かが   
「もういいいよ」                                
と言いました。すると牛までが                          
「モウー」                                   
と合図です。冷たい思いをしたり、くさかったり、草だらけ土だらけでも皆楽しく遊びま
した。                                     
 おまさんの家にはお姉さんの赤ちゃんで、かやちゃん(和枝)と言う子がいます。かや
ちゃんは、牛のお乳で育てられます。おまさんの背中のねんねんこの中で、正ちゃん帽子
をかむって温かく眠っていました。                        


 小鳥捕りと雪滑り                               

 石垣積みの横に大きな檜が風よけに植えてあり、庭に赤と白のボケの花が咲き、八重山
吹の黄色い花が咲く家は好子さんの家です。好子さんは私より三歳上です。好子さんのお
兄さんは小鳥を捕るのが上手です。山がらや、すずめが、さしこ(小鳥籠)へ入れられて
軒下に吊り下げられています。章さんは竹を細かく削って自分で作ります。      
 お父さん、健吾さんは器用な方で、さしこを作る事を章さんにも教えて手伝っていまし
た。村の子ども達は小鳥を捕らえるのが上手です。底の浅い篭やふるい等でおっつ(わな
)を仕掛けておきます。小鳥がわなに入ると、胸がわくわくおどります。雪の降る日は食
べ物の無い小鳥達は、わなとも知らずにその下に入り餌を食べたり、チュンチュン騒いだ
り小首をかしげて愛らしい仕草をしています。                   
 雪が沢山積もると山の斜面でソリ遊びが始まります。ソリは檜の枝の太い部分を削り、
適当な長さに切りそれを板に打ちつけた簡単なものです。板の上にさんだわら(わら製の
丸いもの)を座布団代わりにつけます。山の斜面を登ったり、楽しい声が谷間の村に響き
ます。                                     
 好子さんの家の囲炉裏には大きな桑の根っこが燃えて部屋をつつんでいます。燃えたお
き(火)でもろこしまんじゅうやさつま芋を鉄きに乗せておわかさん(好子さんの母)が
焼いてくれます。                                
 おわかさんは村一番の大きい体の人で、黙って座っていると怖そうな人でした。たばこ
が好きできせるにたばこを詰めて吸っています。煙がふわふわと家の中で舞っている様で
した。                                     
 おわかさんも働き者、春から秋にかけて蚕を飼います。羊も飼っていました。村の人達
は羊から毛糸をとったり、布を作りました。                    
 雪どけ水が屋根からポタポタ落ちる頃、春がやって来ます。町から羊の毛を刈る人が来
るのです。大きなはさみがパキパキ音を立てて毛が切り落とされます。油のしたたり落ち
るようなクリーム色の羊毛は、心をも豊かにしてくれます。毛を刈られた羊は寒そうに、
メェーメェーと鳴いていました。                         


 花嫁さん                                   

 谷地平の中ほどにある千島安吉さんは、美しい娘の花子さんと住んでいました。安吉さ
んは村の人々に安さんと呼ばれていました。奥さんを先に亡くされたので御苦労されたこ
とだと思います。                                
 花ちゃんは、村で一番綺麗な人だと、私は子ども心に思いました。その花ちゃんが照ち
ゃんと結婚すると噂が広がりました。照ちゃん(照義さん)は亀吉さんとおいつさんの一
人息子です。この頃の一人息子は村ではめずらしいことでした。どこの家でも五人六人、
あるいは八人九人と大勢の暮らしでした。                     
 小さな集落には親類が多くて血族関係がありました。安吉さんは恵太郎さんの弟です。
恵太郎さんの裏の家が亀吉さんの家、そこから四、五分歩くと安吉さんの家、花ちゃんが
照義さんと結婚すると三軒が親戚になります。                   
 花ちゃんは綺麗な着物を着てお嫁入りの日です。村の人達が招待されます。子ども達は
お嫁さんを見に行きます。素敵な婿様の照ちゃんもすましています。たった五分か六分の
道を後から皆ついて行きます。五、六分が長い長い道のりに感じるのも晴れ姿のせいでし
ょうか。お嫁さんは入り口で戸ぼう盃をします。若い娘さんのお酌でお嫁さんがお酒を飲
む儀式です。この新しい家に早く慣れ家族となる習慣なのでしょう。白い手がふるえて見
えました。                                   
 家の中では宴の仕度がなされておりお客様でにぎわっています。お嫁さんの花ちゃんは
照ちゃんと並んで上座につきました。子ども達は、縁側にひざをついて閉められている障
子を指先でつついて破るのです。音がしない様につばをつけて静かに破るのです。こうし
てあちこちに破られた穴がしだいに大きくなっていきます。結婚式の障子破りは縁起がよ
いとのことで誰も怒る人はいません。                       
 その後花ちゃんは照ちゃんに愛されお姑さんのおいつさんにも可愛がられて四人のお子
さんに恵まれました。                              


 町っ子                                    

 往還の端にある長谷川さんは会津地方から来た人です。長谷川さんは日窒鉱山の管理人
をしていて電気屋さんの宿泊所です。昔から村に居住している人ではないので、村育ちの
私から見ると、生活習慣が違いめずらしい家庭でした。言葉はアクセントが違って秩父弁
のべーべーではありません。おばさんは若々しく綺麗で品がありました。       
 和子ちゃんのお母さんは東京に住んでいて、年に二、三度和子ちゃんに逢いに帰ります
。村では見慣れない素敵な洋服を着て来ます。お母さんと和子ちゃんは、他の人の様に美
しくなります。村の人たちはめずらしい様子を噂話にします。            
 美しい長い髪をたらしたお母さんは『ユアマイサンシャイン、マヨリサンシャイ、ユメ
クミハッピ…』澄んだ声で歌い和子ちゃんに教えていました。私はその時に何の歌だか分
かりませんでした。毎日和子ちゃんの歌を聞いているうちに歌えるようになって、和子ち
ゃんと一緒に楽しく口ずさみました。                       
 冬休みになって来た時は、トランプ遊びや百人一首などを教えてくれました。    
 夏休みには水着を着けて川に泳ぎに行きました。二人の水着姿は童話の中の人魚の様に
私の心にしみついています。                           
 現代では当たり前の姿も昭和二十二、三年頃は、変わったおばさんに見えたのです。米
人のメイドさんをしているというお母さんは、クッキーやチョコレートもお土産に持って
きたのです。私は甘いお菓子のある東京を夢見ていました。             
 数日経つとお母さんは東京へ帰ります。この生活が当然の様に和子ちゃんはお母さんを
見送っていました。後日は                            
「ジィちゃん、バアちゃん」                           
と甘えている姿がありましたっけ。                        


 父母に乾杯                                  

 大滝村の塩沢地区は、塩沢と谷地の二区になっています。塩沢の水源になっている塩沢
、矢岳ヤ矢沢。大風呂沢です。谷地まで歩いて十五分位です。塩沢の子どもも一緒に遊び
ました。                                    
 お祭りもありました。氏神様は日向の森ごしにあり、塩沢と谷地の中心でした。熊野神
社、お地蔵様、不動様のお祭りもあり、昔はにぎやかに行われました。        
 昭和二十四、五年頃から四十年位までは二十五戸位の家がありました。時代の流れと共
に一戸去り、また一戸と土地から離れて行きました。農林業で生計を立てていた人達も若
い世代と代わり、都会に職を求めて出て行きました。                
 数十戸の家が残った時、滝沢ダムの建設が持ち上がりました。人々は最初のうちは反対
しましたが、時が経つにつれて賛成派と反対派に分かれた様でした。二つに別れた村人達
はお互いに憎しみ合いもあった様です。私はその時は谷地から出ており住んでいませんで
したから、細かな様子は分かりません。父母の生活を観てそう感じたのです。     
 両親は、絶対反対同盟会の八戸の中にありました。六十二歳の頃ダム反対同盟会を結成
した様でした。そして、ダムの事を二十三年間勉強し続けたのです。         
 反対同盟会は浜平の千島武さんが会長で進めて来ました。父は副会長で千島さんを助け
ていた様です。この長い年月には様々な事がありました。三人が亡くなられました。三人
とも一家の中心である人でした。柱である主人を亡くされた家族の方達も反対同盟会から
離れることなく協力していた様でした。                      
 平成四年の十月反対同盟会会長の意でダム建設に側に賛成し、水資源公団と調印したの
です。父は八十四歳を過ぎようとしています。平成五年土地家屋の調査が進められました
。二十数年間の間に村を去った人達は、他の土地で成功していると思います。     
 ダム反対に戦い続けた父母を観ると、昔から少しも変わらず、ありし日の暮らしを観て
いる様な気がしてなりません。両親が若い時にダム建設がなされて村から離れていたなら
、幸か不幸かなどの思いが胸中をよぎります。                   
 残す数ヶ月で年老いた父母が新しい土地に移りますが、引っ越す時耐え難い思いが一杯
だと思います。お金には代えられない何か貴いものが秘められている様な気がしてなりま
せん。                                     
 現在父は八十五、母は八十一ですが、少しもぼけもせず、前向きに世間を見つめて正直
に生きています。父は少し耳が遠くなりましたが、体の健康は自然食で保ち、母は足の痛
みにもへこたれることなく、家の中で杖をついてでも自分達の食事を作り、新しく建設さ
れる家に期待を持って暮らしています。                      
 父が調印式で詩を詠み、それが滝沢ダムサイトに記念碑として残されましたが、県知事
さんとか、関係者多数の心を打ったのでしょう。これだけで長く生き耐えて来た証となり
ます。一生懸命に生きて来た父母に乾杯したいと思います。             
 塩沢、滝の沢、浜平地区の百戸以上の人々が去った後、山々に機械の音がなり、発破の
音が炸裂し、他所から来たたくましい男達の手で雄大なダムが築き上げられ、青々とした
水が満々とたまり、都会の人達の生命の源となるのです。三地区の人々が去った村には滝
沢ダムが観光の目玉となり、大滝村を繁栄させてくれるでしょう。          
 私達故郷を亡くしてしまう人々は、湖底に沈んだ村の事を胸に奥深くしのぶでしょう。
人々は時代の川の中で流れ他所の土地に慣れてしまい塩沢で暮らした事など知らぬ振りし
て……いや或る日以前の村人と出逢った時に思い出の花が咲くのでしょう。      


 追悼                                     

 文中の多くの方々が今は亡く数年経っております。私の胸の中でお世話になった方々が
、生きた姿で浮かんで来ました。お名前をそのまま記しましたのでお礼を申し上げると共
に、謹んで御冥福をお祈り申し上げます。                     
                            平成六年    清水親子

 追記                                     
 滝沢ダム建設記念事業として、完成後のダムが一望できる場所に「こまどり荘」が建設
され、その前庭に父のダム建設への心情が記念碑として刻まれています。       

 我が想                                    
『 文化文政の頃より 生まれ育った 我が故郷 後に残して出て 我が心かなしき 』
                     平成四年十一月十日 八十四歳 山中高雄