山里の記憶122


畑なしの家:山崎日出夫さん



2013. 1. 28



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 一月二十八日、小鹿野町の山崎日出夫さん(七十四歳)を訪ねた。昨年の原画展に来て
下さり、昔の話を是非取材してもらえないだろうかと話が決まったものだった。日出夫さ
んの家は畑がなかった。終戦後、畑のない家の人は食べ物の確保にそれはそれは苦労した
ものだった。そんな「畑なしの家だった・・・」という話を聞かせていただいた。   
 都市部に住んでいる人々は、みな買い出しや闇市を利用しなければ食料を確保出来なか
った時代だ。山里に暮らしていても、畑がなければ同じこと。配給の食べ物だけで生きて
行けるものではなかった。                            

昔の資料を見ながら話をしてくれた日出夫さん。 横であれこれ話を補足してくれた奥さんの具子(ともこ)さん。

 まだ戦時中だった昭和十九年二月一日、小鹿野大火が起きた。日出夫さんが六歳の時だ
った。火は、折からの強風にあおられ、町の半分を焼き尽くし、千束峠の方まで火足を伸
ばした。町の大半が焼かれるという大惨事だった。                 
 幸い、自宅は火に襲われることはなかったが、家財道具を外に出した横で日出夫さんは
どこにいるかわからない両親を待ち、寒さに震えていた。ひとえの着物で外に立ちつくし
、炎と強風と轟音を前に、寒さと怖さで震えていた。                
 日出夫さんの父親は役場の職員だった。この時も役場の職員として火事の対応に走り回
っていたのだが、幼い日出夫さんはそんなことを知る由もなかった。ただただ、一人で震
えながら家財道具の番をしていた。                        

 小鹿野町上二丁目にあった公益質屋が父親の仕事場だった。当時、急なお金が必要にな
った人に、質草を担保にお金を貸し出す公益質屋。人助けのようなものだった。    
 小鹿野町の公益質屋は昭和四十年に事業終了となった。日出夫さんが小学三年か四年ま
で父親はその仕事をしていた。中学の時には終わっていたと記憶している。      
 昭和二十年の終戦を迎えると、今までの状況は一変した。日出夫さんはこんな記憶を話
してくれた。「絵が好きで、それまでは軍艦や戦闘機の絵を描けばほめてもらえたんだけ
ど、その日以来、そういう絵を描くんじゃないって言われるようになったんだいね・・」

お昼は、有名な「安田屋」のわらじカツ丼を出前で取ってくれた。 炬燵で二人から昔の話をいろいろ聞かせてもらった。

 時代は急速に変化した。何もかも不足していた戦後の時代。食べ物の不足は特に深刻だ
った。日出夫さんの家は父が役場の職員だったが、家に畑がなかった。今でこそ地方公務
員はうらやましがられる職業だが、当時はお金があっても買える食料がなかった。   
 畑があれば、食べ物を作ることができたが、食料は配給に頼るしかなかった。配給だけ
で一家五人が食べていけるはずもなく、食べることでは苦労せざるを得なかった。また、
配給の米は黄色い外米でまずかったし、配給の芋もまずい芋だった。         
 必然的に、野山を彷徨い、食べられるものを探すことになる。           
 子供ながらに自分の手で食べられるものを見つけなければ、空腹を満たすことは出来な
かった。川で魚を捕り、山でセリやミツバを探し、キノコを採る。木イチゴやアケビがあ
ればご馳走で、ドドメは腹いっぱい食べられる唯一の木の実だった。         

 春にはセリやミツバを求めて彷徨った。生えているところはみんなが知っていて、競争
で採ったものだった。ノカンゾウやもち草(ヨモギ)は大人たちが先を争って採るので、
子供に採れる分はなかった。                           
 夏は川によく行った。赤平川で箱メガネを使い、腰まで水に浸かってカジカやギンタを
突いた。あんま釣りもよくやった。遊びでもあったが、食料確保の為でもあった。   
 大雨で川が濁った時はボッカン釣りをした。たこ糸に五本くらいの針を付けて淵に仕掛
けるとカジカやギンタ、ソウゲンやドジョウが釣れた。夕方仕掛けて朝上げた。    
 秋は山でキノコ採りをした。チタケやネズミタケを探し、運が良ければイッポンが採れ
た。栗拾いは競争だった。アケビはご馳走だったが、手が届く場所にはほとんどなく、高
い木の上を見上げて指をくわえたものだった。いつも四人ほどの仲間と行動していた。 
 冬は石弓(パチンコ)で鳥を狙うのだが、まあ獲れるようなことはなかった。一二三屋
(ひふみや)で買った鳥もちで、メジロを捕まえて売ったことがある。        

 知り合いに借りた急斜面を耕して芋を作ったことがある。小学二年でも長男として畑仕
事をやらされた。借りた場所は急斜面で、そこを開墾して畑にしたのだが、ねば土(粘土
質の土)でろくな芋が出来なかった。水汲みと水やりに苦労したことをよく覚えている。
 母親は養蚕の手伝いや農繁期の畑仕事を手伝って、食べ物を得た。畑をやっている人の
ところに手伝いに行くと、つみっこやおっきりこみを食べられるのが楽しみだった。  
 サツマイモの茎をキャラブキ風に煮たり、イナゴを捕って佃煮風に煮たりして食べた。
お粥にジャガイモが入っているのは上等だった。サツマイモが入っているお粥もあったし
、大根飯など良い方だった。いろんな野菜が入ったかてめしは大ご馳走だった。    

 日出夫さんが学校に行っている時はまだ給食がなかった。小学校もずっと弁当だった。
学校には生徒の弁当を暖める部屋があり、大きな火鉢に炭が熾っていた。その火鉢の上に
何段も棚があり、生徒は思い思いの場所に自分の弁当を置いて暖めたものだった。   
 その部屋にはいろいろな匂いが充満し、腹っぺらしの日出夫さんに襲いかかった。ブリ
キの弁当箱に、芋だけの弁当だったり、麦飯のまん中に梅干しが入っているだけの弁当だ
ったりした日出夫さん、他人の弁当がとてつもなく豪華に見えたものだった。     

 家ではウサギを何頭か飼っていた。ウサギの餌になる草刈りが日出夫さんの仕事だった
が、早朝行かないと刈れる草がなかった。川向こうの山にぼやまるきや杉っ葉拾いにも行
くのだが、全部競争なので遅く行くと何も拾えなかった。              
 ウサギは正月前に買いに来る人がいて、皮と肉を売った。骨と内臓は煮て食べた。鍋で
煮たウサギの骨をしゃぶったのが記憶に残っている。大きな肉を食べた記憶はないので、
多分ウサギの肉も売ったのだろう。                        

 昔の子供はみんなそうだったが、どこの柿が甘いかとか、どこのビワが旨いかとか知っ
ていて、隠れて盗りに行ったものだった。当然、見つかれば怒られる。逃げ足の速さも必
須だった。畑のトマトやきゅうり、小正月に供えられた舞玉なども標的となった。   
 唯一怒られることなく取り放題、食べ放題の木の実がドドメ(桑の実)だった。大量に
採って帽子に入れたら帽子が紫色になったり、ポケットに入れたらポケットが紫色になっ
たりしたことは誰にも記憶があることだ。当然、母親に怒られた。          

 日出夫さんはおやつというものを食べた記憶がない。芋は主食だったし、余っている食
料もなかった。特に、甘いものは絶望的になかった。                
 そんな中で、強烈に覚えている味がある。芋のぶっかき飴だ。蒸した芋をつぶしてドロ
ドロにし、麦芽を加えて漉し、冷やして固めた飴だ。甘いものがなかった時代、この芋の
ぶっかき飴は喉から手が出るほど美味しかった。                  
 「まりも」の奧の路地に「引間屋」という駄菓子屋があり、そこで売っていた。一円で
二個のぶっかき飴が買えた。多分、近所の人しか知らなかったのではないか、と日出夫さ
んは思っている。                                
 あたご座で青年団が芝居をやった時、劇の中で「もち菓子」を食う場面があった。うす
緑色のもち菓子だった。「いいなあ・・食いてえなあ・・・」と羨ましかったことが忘れ
られない。子供時代のひもじかった思い出は絶対に消えない。            

日当たりの良い縁側には、南国の花がいっぱいだった。 取材が終わった。家の前で二人が見送ってくれた。

 今、日本の食料自給率は四十パーセントを切った。今でこそ飽食の時代を謳歌している
が、世界の食糧事情を考えれば、このまま維持できるはずがない。          
 世界中が自国の民を食わせるだけで精一杯になる時が来る。日本はそんな時に備えて何
か準備をしているかといえば、何も準備はしていない。               
 またあの食糧不足の時代がやってくることは明白だ。そんな時に備えなければならない
と思っている人も多い。いざというときに食料を自給できる畑がある、という事実が大切
だ。いくらお金があっても、買える食料がなければ何の役にも立たないのだから。   
 山里の畑が見捨てられ、野生動物に荒らされている。でもいつか、その畑をまた耕して
食料を生産する時代が来るのではないかと思っている。               

 今回、日出夫さんの話を聞いて、私の子供時代も貧乏だったけれど、畑があったという
だけ恵まれていたのかも知れないと思った。