山里の記憶120


山見守り:千島嘉一郎さん



2012. 12. 23



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 十二月二十三日、大滝の上強石(かみこわいし)に千島嘉一郎さん(八十一歳)を訪ね
た。昔やっていた狩猟の話を聞くためだった。以前、奥さんに秋ミョウガの取材でお世話
になったことがあり、久しぶりの再訪となり、歓待された。             
 暖かい炬燵に入って、嘉一郎さんが自分で作ったというお茶を飲みながら、昔話に花を
咲かせた。料理上手の奥さんが美味しそうなお茶請けを次々に出してくれる。     
 狩猟の話はいつしか、嘉一郎さんの口から出た「山見守り」の話になってゆく。   

 嘉一郎さんは八人兄弟の長男だった。子供時代から背が高く、大滝で「でかい子」と言
えば嘉一郎さんの事だと誰でもわかるほどだった。とにかく小学六年生の時に百七十セン
チも身長があった。服も、子供服が合わないため、親のお古を着ていたので、とても子供
には見えなかった。小学時代の集合写真を見せてもらったが、どう見ても先生に見える。
 遠足に行けば先生に間違われるし、駅の改札では駅員に「大人料金を払いなさい」と言
われ、友達があわてて「同級生だよ」と言うと、駅員が目を丸くしていたという。   

 嘉一郎さんはおじいさんに可愛がられた。父親が早い時期に徴兵され、家の将来を考え
たおじいさんが、嘉一郎さんに目をかけ、山に連れて行った。持ち山の境界線を覚えさせ
るためだったが、子供だった嘉一郎さんが山に行きたがる訳もなく、色々工夫して山に連
れて行ったものだった。山見守りを覚えさせるため、おじいさんも知恵を絞った。   
「ほら腰籠(こしご)持って、山にゴロゴロ様が落ちてるから拾いに行くべえ」と言って
嘉一郎さんを山に連れて行くのが常だった。こうして嘉一郎さんは山の境界線を覚えた。

 他にもおじいさんは子供だった嘉一郎さんに試練を与えた。熊谷までリュックを背負っ
て、闇米を買いに行かせたのだ。「子供だから大丈夫だろ・・」と言って送り出したおじ
いさんもすごいが、そのまま闇米を持ち帰った嘉一郎さんもすごい。         
 一度、大滝の栃本に牛を一頭引き取りに行った事があった。「おめえなら大丈夫だ」と
例によって送り出すおじいさん。小学五年生だった嘉一郎さんは、一人で山奥の栃本まで
牛を引き取りに行くしかなかった。                        
 今のようにきちんとした道はなく、険しい山道だった。苦労してやっと栃本の知り合い
の家で牛を受け取ったのだが、その後が大変だった。牛は長い距離を歩くことが出来ず、
途中で動かなくなってしまった。日が暮れてしまい、子供の力ではどうしようもなく、仕
方なく牛を木につないで自分は近くにあったお堂で一夜を過ごした。翌日、牛をなだめす
かしながら家まで帰ったのだが、おじいさんは涼しい顔で迎えたものだった。     
 父親が兵役に就いていることもあって、おじいさんは嘉一郎さんを跡取りとして鍛えて
いるようだった。山見守りには体力も胆力も必要だった。              

炬燵で狩猟の話や、山見守りの話を聞かせてくれた嘉一郎さん。 若い頃の写真が年代別に整理されているアルバムを見せてもらった。

 十九歳の頃は青年団の団長として地区の若者をまとめていた。みんなで芝居をやること
も多く、女装した写真やら、駐在さんに扮した写真やらがたくさん残っている。    
 公共職業訓練校で指導員をしていた嘉一郎さん。秩父の訓練校が廃校になり、熊谷の訓
練校に行くつもりだった。「兄弟が残り七人もいるんだから、誰か跡を取ってくれると思
ったんだけどねえ、お袋から、跡取りだから帰ってこおって言われちゃってさ・・・」 
 「山の手入れもやらなきゃだし・・・」と帰ってきた嘉一郎さんだった。      

 二十歳の時に免許を取って、狩猟用の二連銃を買ってもらった。狩猟をするためでもあ
るが、山見守りで自分の山を回るついでに狩猟をしようという考えだった。山見守りの為
ならと、おじいさんも気前が良かった。ここから趣味の狩猟が始まった。       
 「ただ山に行ってこいって言われても、行く気はしないからねえ・・銃を持ってりゃ何
があっても安心だったし、獲物が取れりゃあそれでいいしね・・」山見守りの日が続く。

 嘉一郎さんの銃は水平二連銃で、主にヤマドリやウサギを撃った。弾は鳥やウサギ用の
ザラ弾や一粒の熊弾、三粒の鹿弾があった。くまいち、しかさんと呼んでいた。    
 大滝村の猟友会に加入していた。当時、大滝村だけで六十人前後の猟師がいた。   
 嘉一郎さんの猟は一人のことが多かった。猟犬はポインターが優秀だった。鳥やウサギ
を見つけると、嘉一郎さんの合図で回り込み、こちらに向かって追い出してくれた。  
 撃ち損じると、露骨にがっかりした顔になるのがわかった。「犬も利口だから、バカに
するんだいね・・」「犬は良かったんだけど、こっちの腕の方がどうも・・」と笑う。 
 獲物が獲れたときは、ほめて頭をなでてやるととても喜んだものだった。      

 一回だけ熊猟に行ったことがあった。知り合いの猟師が若手に熊猟というものを教えよ
うという為のものだった。奥山に向かったのは五人だった。熊穴はベテランの猟師が発見
したものだった。足跡で発見し、慣れている人は入り口の乱れ具合で熊がいるかどうかわ
かる。岩の隙間にある洞穴だった。                        
 熊穴に向かう途中、腕くらいの太さの木を伐って運ぶ。フジツルも途中で採って持って
行く。これは熊穴の入り口をふさぐ柵を作る為のもの。               
 熊穴から熊を追い出すためにベテランの猟師が裸になって入る。寝ている熊を棒で突い
て起こすためだ。寝たままの熊を撃っても運び出せない事が多いので、冬眠中の熊をむり
やり起こして入り口まで出たところを撃つというもの。               
 ふんどしも付けず、すっ裸になった猟師が言った「服を着てると爪に引っかけられる事
があるからな・・」今まで四回ほど入ったが、引っかけられた事はないという。    
 頑丈な格子に組み上げた柵を入り口に立てかけ、つっかい棒で止める。いい加減にやる
と熊に押し倒されてしまうので真剣だ。中に入った人が来たら素早く外に出して熊を待つ
。熊は柵に怒って立ち上がる。その時に胸を撃つ。                 
 この時も無事熊が獲れた。重くて、運ぶのが大変だったことを覚えている。     

二十六歳の嘉一郎さんと十九歳の徳子さんの結婚写真。 山で採ってきたユズを二人で選別している。料理やお土産に使う。

 嘉一郎さんは二十六歳の時に、十九歳の徳子さんと結婚した。長若(ながわか)の長留
(ながる)から嫁に来る前に、徳子さんが嘉一郎さんに言った。「結婚する時には猟師を
止めてください・・」徳子さんの両親からもそういう申し出があった。        
 嘉一郎さんは銃を返納して猟師を止めた。「ちっと、銃がもったいねえなあって思った
けどねえ・・・」徳子さんと両親の意志は固かった。                

 昔も今も、猟銃をめぐっては様々なことが言い伝えられている。多くの命を奪う存在で
もあり、忌み嫌う人も多かった。うわさ話には尾ひれが付き、様々な形でささやかれるよ
うに広がってゆき、澱のように沈殿し、あるときにふと表に出る。          
 奥さんを鉄砲で追いかけ回した猟師の話だとか、熊と間違えられて撃たれた猟師の話だ
とか、手を合わせている猿を撃った猟師が自殺した話だとか、白い服の人を鹿の尻と間違
えて撃ってしまった猟師の話だとか、誰でも何度かは耳にする話だ。         
 昔は更に山の信仰だとか、物の怪だとか、けもの憑きだとか、もの狂い、憑依など様々
な要素が生活の中にあった。猟師に娘はやれないという人がいたのもよくわかる。   

 結婚してすぐに猟銃を秩父の銃砲店に返納した嘉一郎さん、二度と猟銃を持つことはな
かった。「けものを殺しちゃあならねえ・・」と言って、弟たちにもやらせなかった。 
 銃がなくとも山には行った。植樹や下刈りなど、兄弟で山を守った。徳子さんも重い杉
苗を遠い山まで運んだ。「まったくねえ、昔は御岳山の下まで杉苗を運んで、植えて、下
刈りをやったもんだいねえ・・」と徳子さんが懐かしそうに言う。          
 上半身裸の三兄弟が下刈り鎌を手にして撮った写真がある。三人のたくましい上半身が
素晴らしい。兄弟で力を合わせて山を守ってきたことがよくわかる写真だ。      

畑でスキを使ってうなうやり方を見せてくれた。まだ足が軽い。 取材を終えて帰る際に、道路まで出て二人で見送ってくれた。

 今も山には四百年を超える杉がある。ご先祖様が植えた杉だ。今年の九月に二人でその
杉を見に行った。その時の写真を見ながら、あれこれ話す。四十町歩の山林がよく手入れ
されている。「手入れが悪くってねえ・・」と言うが、よく手入れされている杉林だ。
 四百年の杉の写真を見ながら「昔はいっぱいあったんだけど、雪の重みで倒れちゃうん
だいねえ・・下の土が軟らかくなっちゃってねえ・・・」自然の定めとはいえ、四百年育
った杉が根から倒れているのを見ると、かわいそうな気がすると嘉一郎さんがつぶやく。
 山とともに生き、山を守ってきた人生だった。