山里の記憶111


大滝村誌編さん:木村一夫さん



2012. 9. 23



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 九月二十三日、朝から雨が降っていた。秩父路の山々は雨雲に隠れて、その偉容を隠し
ている。奥秩父の大滝に、大滝村誌編さんの取材に伺ったのは木村一夫さん(八十二歳)
の家だった。                                  
 一夫さんが委員として編さんした大滝村誌は、平成十四年に村誌編さん委員会が発足し
、毎月一回の会合を重ね、平成二十三年三月に刊行された。上巻、下巻、資料編写真集の
三巻からなる大作だ。刊行までにじつに九年の歳月がかかった。           
 編さん委員会は、委員長に山中義一氏、副委員長に千嶋壽氏、委員に千島茂氏、二ノ宮
完二郎氏、廣瀬利之氏、南良和氏が名を連ねている。                
 委員のひとりであった廣瀬利之氏は(山里の記憶で二度取材させて頂いた方)、村誌の
完成を見る前に亡くなられている。                        

朝から雨が降っていて、家の前の道が川のようになっていた。 お茶を飲みながらいろいろな話を聞く。妻のアサ子さんも話してくれた。

 挨拶をして家に上がらせて頂き、一夫さんから村誌編さんの苦労話や裏話を伺った。 
 そもそもの始まりは、前村長の千島茂氏が村長時代に考えていたことだった。    
 前村長の作った「大滝村もの知り電話帳」が発端になっている。これを充実させて村誌
が出来ないかという話になり、千嶋壽先生が中心になって作業が進められることになった
。当初、三富村や川上村の村誌や資料を参考にして進み、後には名栗村の村誌を参考にし
て大滝村誌作りが進められることとなった。                    

 そして、この村誌編さん作業が進む中で平成の大合併が行われ、大滝村もその荒波に飲
まれることになる。明治二十二年に、大滝、中津川、三峰が合併して出来た大滝村。平成
十七年四月一日、大滝、秩父、吉田、荒川が合併して、大きな秩父市となった。    
 大滝村は閉村し、新たに秩父市大滝として歩み始めることとなった。まさに、大滝村誌
が消えゆく大滝村を見送る形で世に出てきた。時代の流れは時に大きな偶然を呼ぶ。不思
議な展開で大滝村誌編さん事業は、新秩父市の事業として新たな意味を持った。    
 村誌上巻は一・村の概要、二・歴史の概要、三・村の共同体態勢、四・生産・生業、五
・交通、観光という章立てになっている。                     
 下巻は、六・信仰、七・民俗、芸能、歌謡、娯楽、八・家、人の民俗、九・生活の民俗
、民間療法、十・伝承、言葉の民俗、十一・人物誌、となっている。         
 別冊の資料編写真集は、写真家の南良和氏が担当した。また、村誌内の写真についても
南良和氏が専門的立場から助言をしながら編さんを進めた。             
 なお、民話の挿絵は木村邦男氏(一夫さんのご子息)によるもの。         

 そもそもの始まりが大滝村の民俗をまとめたものであった為、通常の村誌にありがちな
村の歴史年表的な色合いよりも、昔ながらの暮らしに基づいた大滝村民俗集という色合い
が濃い。内容も多岐に渡り、豊富な資料が生かされ、充実した村誌となっている。   
 また、文章が一夫さんのように、自分で山仕事をし、椎茸を作り、こんにゃくを作った
人が書いている文章なので、とても親しみやすい文章や表現になっており、民俗学上でも
貴重な資料なのではないかと思う。                        

 この村誌編さんにあたり、どんな苦労があったのか、とても興味深く一夫さんの話を聞
いた。村誌下巻の七章から十章までと、各章の民俗的内容については一夫さんが書いた。
上巻でもほとんどの章で、生活に基づいた記述は一夫さんが手を入れた。林業や農業の詳
細な大滝村としての記述は、実際にやった人でなければわからないからだ。一夫さんは、
村の歴史として、生業としての林業や農業のことを書いた。             
「千嶋先生からは血の通った文章を書いてくれって言われたんだい・・」と一夫さん。 
「書きたい事はいっぱいあったんだけど、まあ、これだけでも残すことが出来て良かった
いねえ・・」と謙虚だが、何をどこまで書くかを判断するのが難しかった。      

 大人の遊びという項目があった。中でも丁半ばくちの記述は困った。自分でやったこと
がないので、その筋の人を捜して話を聞いた。しかし、途中でその人が亡くなってしまっ
た。また、新たに知っている人を捜して続きを書いたのだが、他の委員から「丁半ばくち
べえ丁寧に書くこたあなかんべや・・」などと言われてしまった。          
 三峯神社で昔販売していた薬の取材をしたときのことだった。やっと探し当てた小川の
薬局に行ったら、玄関先で思いっきり怒鳴られ、血相を変えて怒られ、とりつく島もなか
った事があった。何で俺が怒られなきゃならんのか・・と情けなかったが、どうも神社に
恨みがあったらしい。                              

 関所の大村家の資料解読が大変だったことも懐かしい思い出だ。大村家の年中行事を記
述することになったのだが「古文書なんで、昔の文字や内容のわからない言葉があって往
生したいなあ・・」と振り返る。苦労した記述は民俗学的にも貴重なものだった。   
 その大村家の古文書から新たにわかったこともあった。江戸城が火事になった時に大村
家が木を供出したことがあり、そのお礼のような意味で幕府から関東一円に薬の販売を許
可されていたようだ。栃本の人の中で、ある時期に薬草を刈って関所に持って行くしきた
りがあったと言う人がいた。これも、その話を裏付けるものだろう。         
 こういう大滝の民間療法の話や大村家の話は、いきさつとか色々勉強になったという。

 書かなかった話としては、むかしむかしの風習としてのよべえ(夜這い)の話。これは
委員からも「これはよすべえ・・」ということになり、書かなかった。        
 また、ダムや山林の利権がらみの話も書けなかった。村の歴史は表の歴史もあり、当然
ながら裏の歴史もある。利害関係は複雑に絡み合い、片方の利益が片方の不利益になる。
そういった内容を含む記述は後の混乱を招くので書かなかった。「まあ、墓場まで持って
行くんだろうね・・」とさらりと言う。                      
 一夫さんが書いた文章中にも伏せ字になっている箇所がある。聞くと「まあ、どうっち
ゅうことはないんだが、本人の子孫のことを考えてね・・」という返事。先の先まで考え
て文章を書いていたということだ。                        

資料倉庫を見せてもらうために雨の中を案内してもらった。 引き出し式のケースで、項目毎に分類された村誌の資料。

 話が一段落したので、資料倉庫を見せてもらうことにした。倉庫は自宅から少し離れた
道の上に建っていた。広い倉庫の奧に天井まで箱詰めの資料が積み上げられている。専用
の棚の上段に、ダンボール箱ひと箱ずつ内容を書いた紙が貼られ、分類されている。  
 中段には引き出し型の衣装ケースがきれいに積まれており、ひとつひとつ分類された表
題が書かれていて、ひと目で内容がわかるようになっている。下段にはお茶箱にキャスタ
ーが付けられたものが並び、これには古文書関係が収納されている。         
 一夫さんの家は十五代続いた組頭をしていた家柄だ。名主の家が古文書を大切にしない
ので自宅で預かって保存してきた。こうして残された古文書類が今回、村誌編さんで役に
立った。資料を整理整頓して保管する家系だったからこそ出来たことだ。       

 じつに機能的に整理整頓された資料倉庫だった。他にも三百本くらいのビデオテープが
整然と並んでいる棚があった。全部一夫さんが録画したものだ。横にはいつでもビデオが
見られるようにテレビが置かれている。素晴らしい・・・              
 自宅の資料、村の資料、民俗資料、書籍、ビデオテープなどの他にも、息子や孫の専用
資料ボックス、旅行専用の資料箱、などなど全てが整理整頓されている。       
 「俺が生きてる間は大切にしようと思ってるんだい・・」「死んじゃえば、みんなゴミ
んなっちゃうんだろうけど・・」「何でも取っておけば役に立つんだいね・・」    
「俺だから知っていたことだし、俺だから書けたことなんだいね・・」        
 妻のアサ子さんによると「まったく、毎日倉庫に行って見てたんだよ・・」とのこと。

古文書はお茶箱で保管されている。見せてもらったが内容はわからない。 八十二歳とは思えない、一夫さんの元気な足腰。急な階段も普通に歩く。

 この資料倉庫を見てはっきりわかった事がある。大滝村誌は、この一夫さんがいなかっ
たら絶対に出来なかったということだ。出来たとしても今の内容は保証できない。   
 大滝村自体の資料はあまり残されていなかった。五年、十年と決められた保管期間を過
ぎたものはどんどん捨てられる。その重要性もなにも関係なく捨てられる。      
 まして、こうして資料を個人で保管している人などいない。しかし、奇跡的に一夫さん
がいた。大滝村誌はその資料で出来上がったし、輝きを増した。           
 もう昔の事を覚えている人もいない。八十二歳の一夫さんにすれば「上の世代がいなく
って、聞ける人がいなくなっちゃったんだい・・」ということになる。        
 また、「信頼されてやったんで、おざなりでなく取り組めたんが良かったいねえ・・」
気の合う委員で進められたことも、素晴らしい村誌が出来た一因であるという。    
 今は大滝の方言を収拾して何かできないか思案中とのこと。まだまだやることは多い。