山里の記憶104


八十九歳の畑仕事:江田幸子さん



2012. 4. 25



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 四月二十五日、秩父市荒川の江田幸子さん(八十九歳)を訪ねた。幸子さんは滝沢ダム
で、全戸移転を余儀なくされた大滝・滝の沢地区の出身だった。二十三歳まで暮らした滝
の沢での話や、嫁に来てからの話、そして八十九歳にして今なお現役でやっている畑仕事
について話を聞かせてもらった。                         
 滝沢ダムについては、平成四年十一月十日の損失補償妥結まで二十三年間という長い反
対運動が続いた。妥結後は平成八年十二月までに、全水没地域の百十一世帯、三百三十四
人の移転が終了した。滝の沢地区では全四十二世帯百三十二人が生まれ育った先祖伝来の
地を離れた。幸子さんの実家は県北の行田に移転した。滝の沢地区は集落や耕地が水没す
ることはなかったのだが、地滑りの恐れがあるということで全戸移転となった。    
 そして、平成十一年三月二日に滝沢ダム本体工事が着工され、今は満々と水をたたえて
いる。ダムの横を走り抜ける毎に、故郷を追われた人のことが頭をよぎる。      

 滝の沢での暮らしは大家族での自給自足だった。子供も畑仕事や山仕事にかり出され、
朝から晩まで働いた。食べる為の仕事は子供も大人も一緒だった。幸子さんは体が小さか
ったが、元気な子供で、親を助けてよく働いた。                  
 蚕は百五十貫も作った。こんにゃくも作っていた。「せんぜえもん(野菜)もえら作っ
たもんだったい・・・」と持参した昔の滝の沢の写真を懐かしそうに見ながら幸子さんが
話してくれた。                                 
 十一月から三月くらいの農閑期には「青年学校」というのが楽しみだった。同級生が七
人いて、四キロ離れた鶉平(うずらだいら)に通った。小学校も鶉平だったから慣れた道
で、みんなと一緒に勉強するのが楽しかった。                   
 滝の沢には「稲荷祭」というお祭りがあった。お神楽が有名で、お祭りの時だけ舞台を
作って神楽を舞うのを楽しみにしていた。お神楽は三峯神社にも奉納されていた。三峯神
社の参道を大きなお神楽の荷物を背負って登る様子を見たことがある。そのお神楽もダム
による全戸移転の際に終わったと聞いた。                     
 昔は「水しょい」という女衆の仕事があった。三峯神社には水がなかったので、下から
樽に入れた水を背負って運び上げる仕事だった。女の人が列になって樽を背負い上げるの
を子供の頃に見た記憶がある。                          

ダムに消えた故郷の写真を見てもらい、昔の話を聞いた。 納屋には幸子さんが作ったジャガイモが貯蔵されていた。

 二十三歳になった幸子さん。見合い結婚した相手は白久(しろく)の長衛(ちょうえ)
さんだった。昭和二十一年のことだった。同じ歳の二人は白久で新婚生活を始めたが、ひ
とつ屋根の下に十人が暮らす家に嫁に来た幸子さんは大変だった。          
 しかし、幸子さんは頑張った。体は小さかったが丈夫だった。大滝の滝の沢で鍛えられ
た体は、背負うのも強かったし、掘るのも強かった。お舅さんが「おまえには負けるよ」
と褒めてくれたものだった。朝から夜まで真っ黒になって働いた。          

 朝から夜八時まで畑で働いて、夜は臼を挽いて囲炉裏端でまんじゅうを作った。終わる
頃にはもう夜中の二時だった。そして朝は四時から起き出して働く。本当に良く働いたも
のだった。朝、山から木を拾って来て焚き付け、朝飯を作る。            
 まだ水道がなかったので、水は八十メートルほど離れた井戸から汲んで来た。水桶を二
つ、天秤棒で担いで水を運んだ。風呂桶をいっぱいにするには三回半の水が必要だった。
「水担ぎが大変だったいねえ・・」と昔を振り返る。その水桶は今でも大切に納屋に保管
されている。                                  

 家の二階で蚕を飼っていた。囲炉裏の上が吹き抜けになっていて、火を燃した熱が二階
に回るようになっていた。古くなった桑の木をよく燃したものだった。        
 ヤギを飼っていて、乳搾りをやった。ヤギの新鮮な乳で、チーズのようなものを作って
食べたことを憶えている。豆腐作りは共同でやった。近所の人が大勢集まって、大豆を煮
て、石臼ですって豆腐を作った。味噌や醤油も共同で作った。家には二斗炊きの大釜があ
って、それを使って豆腐も味噌も醤油も作ったものだった。             

 まだダムが出来る前、台風などで大水が出ると、長衛さんが大きなすくい網を持って川
に行き、魚をいっぱいすくって来たものだった。いつだったか、前の畑に大きな水たまり
が残った時、その中に太いうなぎがいて驚いたこともあった。今はダムが出来て水が出な
くなったので、そんな楽しみもなくなってしまった。                
 この下の川を杉丸太のイカダを組んで流したものだったが、今はそんなことは出来ない
くらい水が少なくなってしまった。                        

電話は親戚の人から。畑の相談に応えている幸子さん。 家の前に広がる畑を見ながら、いろいろ説明してくれた。

 炬燵での話を終えて、納屋の様子を見させてもらった。納屋にはたくさんの穀樽が並ん
でいた。幸子さんが作った小麦や大豆が納められ、表に何年ものかが明記してある。  
「大滝イモも作ってるんだよ・・」と芋の貯蔵庫を見せてくれた。これはネズミ除けにと
息子さんが作ってくれたもの。木枠と金網で作られた貯蔵庫には収納箱に入ったジャガイ
モが重ねられていた。この貯蔵庫のお陰でネズミの被害がなくなったと笑っていた。  
 納屋には、先の話に出た水桶や、石臼、トウミ、セイタなどが整頓されて保管されてい
た。昔の生活を忍ばせる貴重な民俗資料だ。もちろん今でも使えるようになっていた。 

 植えたジャガイモの土寄せをするという幸子さんと畑に出た。家の前の畑はきれいに耕
されていて、ジャガイモの芽が出始めたところだった。今年はダンシャクとベニアカリを
二十キロ植えた。元肥は入れなくて、種芋の間に配合肥料を置く方法で栽培する。   
 身長よりも柄が長いような鍬を持って畑に入り、芽が出たジャガイモに土寄せをする幸
子さん。とても八十九歳には見えないキビキビした動作が素晴らしい。        

 家の裏手が竹林になっていて、筍が畑に生えて困るという。見ると本当にニョキニョキ
出ている。掘ってくれと言われてトウグワを出されたので、頑張って八本ほど掘ったが、
見ていた幸子さんに「下手だねぇ・・」と言われてしまった。返す言葉もない。    
 アシタバがどんどん増えている。ニラも勝手に生えている。どちらも植え替えて手をか
ければどんどん大きく育つ。ニラは何にして旨いし、アシタバは天ぷらが旨い。畑には何
でも植えて、自分の家で食べるものは全部作ってきた。               

「まだちょっと早いけど・・」と言いながら芋の土寄せをする。 土寄せを終えて猿の話になり、笑いながらいろいろ話してくれた。

 そんな幸子さんが、五年ほど前から悩まされていることがある。この地区の畑に猿がひ
んぱんに出るようになったのだ。畑の作物は全部猿に食われるようになってしまった。 
 サツマイモ、大豆、枝豆、トウモロコシはまるで猿の餌。キュウリやナスはたくさん成
ると人間にも食べる分が回って来る。トマトは言うに及ばず、ニンジンも猿が食う。ひと
晩で全部食われた時もあった。今、トマトはスーパーで買っている。         
 このごろは猿の食わないものを作るようになった。カボチャやキュウリは地生えにする
と猿の被害が少ない。ゴボウやキャベツ、ピーマンは猿が食わない。猿のせいで作付けが
変わってしまったのも仕方ないことだ。                      

 一度、吊るし柿を作った時に家を留守にした事があった。なんと猿が全部抱えて持って
行ってしまったという。猿には柵を作っても意味がないし、飼っている犬がいくら吠えて
も全然効かない。つながれている犬なんか恐がりもしない。川の近くの家だから、川から
猿が上がって来たり、山から来たりで、防ぐことができない。            
 それでも幸子さんは畑を止めるつもりはない。猿と共存しながら、自分の食べる野菜を
作って行くつもりだ。滝の沢から持って来て、延々と種を取って来た青首大根もある。 
 親戚の人から電話がかかってきて、畑や作物の相談を受けることも多い。みんなの相談
に乗りながら、自分でも畑をやる。ちょっとでも時間があれば畑の草取りをする。   

 そして、地区の寿学校に参加して公民館で講座を聴いたり、みんなで料理を作ったりす
るのが楽しみだ。幸子さんは寿学校にずっと皆勤だった。「もう、あたしより若い人ばっ
かりになっちゃったいね・・」若い人と話すのが楽しいという。           
 今は周辺の三耕地でやっている「ミニディサービス」に行くのを楽しみにしている。十
時から三時までみんなと遊べるのが楽しい。「年寄りが集まるんが楽しいんだいね・・」
と笑う。幸子さんが年長者になってしまったが、まだまだ元気いっぱいだ。足腰もしっか
りしているので、歩いてディサービスにも通っている。本当に元気な八十九歳だ。