山里の記憶101


おひまち:出浦(いでうら)光子さん



2012. 3. 18



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 三月十七日、小鹿野町両神の薄(すすき)地区にやって来た。今日はここで「おひまち
」の取材をすることになっている。                        
 おひまちは「日待ち」とも呼ばれる習慣で、日本語大辞典によると、【日待ち:1、特
定の日に村内の同信者が集まり、神を祭り終夜お籠りして日の出を待ち拝むこと。期日は
一定しないが一月、五月、九月の吉日に行うことが多い。2、農繁期の終わったあと皆で
集まり、飲食をして楽しむ行事。】とある。                    

 私が子供の頃にもおひまちは年に何度か行われていた。子供だけのおひまちもあり、天
神様のおひまちでは、それぞれお米をお堂に持ち寄り、子供だけでご飯を焚いて食べ、大
きな子が小さな子の面倒を見て、一晩中書き初めしたりトランプなどをして過ごした記憶
がある。どこでやったのか、何をやったのか記憶は走馬灯のように定かでないのだが、と
ても懐かしい記憶になっている。昔の山村や農村ではどこでも行われていた行事だった。

 日本全国あらゆる場所で行われていた行事で、あるいは神事として、あるいは仏事とし
て、また、男だけのおひまち、女だけのおひまち、子供だけのおひまちとスタイルも内容
も意味も様々で行われていた。由来も、仏教説、神道説、道教説、太陽神説、陰陽道説と
様々に伝えられていて、何が本当なのかよくわからない。              
 ただ、現在は「昔はやってたけどねえ・・」というケースが多く、昔のおひまちの話を
聞くことは多いが、実際にやっているところは少ない。               

 今回伺ったのは、薄地区で昔から行われていた、出浦(いでうら)一族の天王様のおひ
まちだった。薄地区の穴部(あのうえ)、桜沢(さくらざわ)の二つの耕地は全て出浦姓
の一族で構成されている。現在は七軒の出浦さんが住んでいる。           
 天正十八年、鉢形城が秀吉の小田原攻めに応じた上杉・前田軍二万に囲まれた。北条氏
邦は一ヶ月の篭城をしたが、時に利あらず家臣の命を守るため開城した。秩父山中に落ち
た武将が多かったが、その落人の中に出浦一族の祖がいた。小鹿野に落ちた出浦主膳や、
薄に落ちた出浦式部がその祖と言われている。                   

道路脇に建てられた地蔵堂がおひまちの会場だった。 「愛宕山将軍地蔵尊」といういかめしい名前の霊験あらたかなお地蔵様。

 もともと出浦氏は信濃の村上義清の家臣だった。武田晴信に主君が滅ぼされ信濃を追わ
れ、鉢形の北条氏に仕えた。武田や真田と敵対したことから、武田、真田の領地では出浦
(いでうら)姓を名乗ることが許されず、今でも佐久では出浦(でうら)、真田では出浦
(いずうら)と呼ばれている。かの地で「いでうら」と呼ぶ姓はない。        
 ただ、元の領地である坂城町(さかきまち)には、人は住んでいないのに出浦家の墓所
が存在し、村上義清の遺骨が分骨され、埋葬されていると伝えられている。      
 数年前、出浦家の先祖の町を見ようと、一族でバスを仕立てて坂城町を訪れた時の事だ
った。坂城町でもその事が話題になり、町の広報に取り上げられた。三百年ぶりの故郷帰
還という事で、多いに一族の面目を施した出来事だった。              

 出浦本家の光子さん(八十六歳)が迎えてくれて、おひまちの会場に入った。会場は道
路脇に建てられたお地蔵様を祀るお堂だった。中央のテーブルには赤飯やおはぎ、お漬物
が並べられ、八人の参加者が思い思いの会話を楽しんでいた。「お籠り」といって、朝か
ら夕方までこのお堂に籠って、いろいろな話をする。お堂に電気は引かれてないので、夕
方までには終えることになっている。                       
 今日は、年に一度おはぎを作って天王様に供えるおひまちで、お地蔵様のお札を刷って
配り、交通安全や事故除けの祈願をするのだという。天王様は疫病除けの神様だ。   
 昔は「さし番」という当番が二人で各家庭を回り、お椀一杯の小豆を集め、それを煮て
大量のおはぎを作った。当日それを食べ、余ったおはぎは各家に持ち帰った。今は簡素化
しておはぎも買って済ませている。                        

 お堂に安置されているお地蔵様は「愛宕山将軍地蔵尊」という名前がついている。その
昔、山の上にあったものが、この地に落ちて来たと伝えられている。いかめしい名前その
ままに、霊験あらたかなお地蔵様だ。日清日露戦争の際、このお地蔵様をお参りした出征
兵士は全員無事に帰ってきたそうだ。                       
 また、崖から落ちても怪我しないとも言い伝えられている。むかしむかし、出浦仁作と
いう人が牛と一緒に崖から落ちたが、何も怪我をしなかった。            
 光子さんも言う「あたしも乳牛(ちちうし)と一緒にハケ(崖のこと)から落ちたんだ
けど怪我をしなかったいねぇ。縄を手に巻いてたんで一緒に落ちちゃったんだけど、お地
蔵さんのお陰で何ともなかったんだいねぇ・・」横の崖は川まで三十メートルほどある急
な崖だ。お地蔵様の霊験はあらたかなのだ。                    

出浦一族、年に一度のおひまちで、様々なことが話し合われる。 地蔵堂の横にある「天王様」について話してくれた光子さん。

 昔、お地蔵様の縁日は大変なにぎわいだった。光子さんが小学生だったころ、五銭持っ
てお参りして、帰りに小豆飯(もち米ではなく普通のご飯と煮た小豆を混ぜたもの)を半
紙にくるんだものをもらって食べるのが楽しみだった。本当ににぎやかだったと、昔を振
り返る。「桜沢に同級生がいてね、みんなで来たんだいね・・」と懐かしそうに話す。 
 昔から年三回おひまちの日は決まっていた。三月二十四日、四月十四日、十月二十四日
の三回だ。四月が天王様、十月がお地蔵様のおひまちだった。年三回のさし番の人は本当
に大変だったと、参加していた女衆(おんなし)が口をそろえる。          
 今は食事もそうだが、おひまちそのものも簡素化して、年に二回にした。今行っている
天王様のおひまちの後、春に一族の花見の旅行を計画し、それをおひまちの代わりにして
いる。その一族旅行の最初の回が、先に書いた「ご先祖様の町へ行く」という長野の坂城
町への旅行だった。                               
 今も昔も出浦一族の結束を固めるためのおひまちなのだと口をそろえる。      
「それぞれの家の人が出浦一族として誇りを持っているんだいね」と本家の光子さんが胸
を張る。その場に昔の古文書などが持ち出され、若い人に読み聞かせたりもしていた。 

 みんなの話が一段落したところで、光子さんに昔の話を聞いた。光子さんはこの近くで
生まれ、成人し、縁あって出浦本家に嫁に来た。学校を出て郵便局に勤め、ずっと働いて
いたかったのだが、それは許してもらえず、二十歳の時に四つ上の芳(よし)さんと結婚
した。昭和二十年九月十一日のことだった。「本当はもっと働きたかったんだいね・・」
 野良仕事と養蚕が中心の仕事だった。三頭の牛も飼っていた。一頭は田畑を耕す赤牛で
、もう二頭は乳牛だった。乳搾りも光子さんの仕事だった。炭焼きの手伝いや、炭俵作り
もやった。「炭俵の茅を刈ってくるんが大変だったんだい、首がかゆくてかゆくて・・」

 子供は四人の子供に恵まれた。男の子が三人、女の子が一人だった。光子さんは本当に
頑張って子供を育てた。植林もした。二尺五寸の大苗をカマスに入れて背負って山に運ん
だ。植えた杉や檜は数知れない。植えた杉や檜はは五年の下草刈りをやらなければならな
かった。毎日が重労働の連続だった。                       
 乳牛の乳搾りも毎日の仕事だった。息子に手伝ってもらいながら、毎日乳搾りをした。
「牛を飼ってると、旅行なんか出来ないんだいね・・」毎日が本当に忙しかった。   

 光子さんが三十八歳の時だった。もともとあまり丈夫でなかった夫の芳さんが亡くなっ
た。まだ四十二歳という若さだった。光子さんの背中に四人の子供を育てるという重荷が
のしかかった。光子さんはそのころ三十七キロくらいまでやせ細ってしまった。    
 「健康だったから出来たことだいね・・」淡々と当時を語る光子さん。       
 「働けるだけ働いて、使い過ぎちゃったんだいね。足が痛くなっちゃって・・」   
 そこには立派な家を構える本家の尊大さはない。ただ、ひたすら子供たちを育てた、小
さな一人の凛とした母親の姿だけがあった。                    

今日のおひまちは午後二時で終了した。みんなで片付けをする。 最後に全員の集合写真を撮った。おひまち参加の出浦一族の皆さん。

 出浦一族のおひまちは、一族の結束を守り固めるためのものだった。戦国武将だった先
祖の足跡を追い、自分たちが何ものなのかを見つめ、それを誇りとして日々を生きるため
のものだった。                                 
 その昔、血のにじむような苦労をして、この地に居を構え、地域の為に尽力してきた先
祖を崇め讃える「おひまち」だった。こうして言い伝えられてきた自分のルーツ、それは
地域の中で、何ものにも代え難い自分たちの光明だったのかもしれない。