面影画87


特別取材「突然800人の被災者が」




突然800人の被災者が                             

特別インタビュー                                

 今回この面影画を描くにあたって、陸前高田市「特別養護老人ホーム 高寿園」にお世
話になった。特に、事務主任の佐々木晃さんに出会えなかったら実施することすら難しか
ったかもしれない。偶然の出会いと言ってしまえばそれまでだが、この人との出会いが全
てであったかもしれない。自分の運の強さを実感した出会いだった。         

 その佐々木晃さんの体験を記録しておくことは、災害時緊急体制を考えるときに大きな
示唆を与えてくれる。突然、自分の職場が800人の被災者がいる避難所になったら、あ
なたはどんな行動がとれるだろうか?冷静に状況を把握して人々を誘導出来るかどうか、
自分自身に問いかけてみると今回の体験記がどれだけ重要かわかっていただけると思う。

 お世話になった老人ホームの記録でもある。面影画の最後を締めくくる記録として、災
害がどんな形で収束していったのか、そこにはどんな人々の力があったのか、様々な要因
を当事者の目から見た記録としてまとめた。なお、写真は高寿園の記録から写させていた
だいた。                                    



9月20日 佐々木 晃さん

突然800人の被災者が
職場が避難所になるという現実を話してくれた佐々木 晃さん。

 高寿園の事務主任を勤める晃さん。この日は職員の入所していた母親が亡くなって、お
通夜の予定だった。いつもは4時に行くのだが、この日に限って3時に行こうということ
になって、高田の松原にある自宅に戻って喪服に着替えていた。           
 そこに大きな地震が来た。あちこち地面に亀裂が走り、尋常な地震ではなかった。「こ
れは津波が来る!」そう直感した晃さん。すぐに奥さんと同居している両親を乗せ、車二
台でそのまま高台に走る。途中、市民体育館の前は避難する人と車でごった返していた。
 職場のある高台にまでやっとの事で避難し、晃さんはそのまま職場に入った。奥さんは
その後、市内の方から砂埃というか土ぼこりのようなものが立ち上がり、こちらに迫って
来るのを見た。すぐにさらに高台に避難する。そこは高寿園の別館だった。そこはそのま
ま避難所となった。                               
 高寿園の事務室に、ひとりの女の子がウサギを抱えて泣きながらやってきた。事務所の
菅原さんの子供だった。「おかあちゃん、家が壊れたぁ・・・」           
 菅原さんの家は高寿園のすぐ下にあり、津波がくるはずのないところだった。事務所は
騒然となる。その後すぐに山を越え、林を抜け、ボロボロになった人々が集まってきた。
その数はどんどん増えて数えられない。みな行く場所がなく、ここにすがるように集まっ
て来た。                                    
 高寿園はそのまま、着の身着のままの人が800人も集まった避難所になった。   
津波に襲われて壊滅した陸前高田の町並み。 市内にあった高寿園の分室も壊滅した。

 晃さんをはじめ園の人がまずやった事は、入所者を奥の部屋に移して被災者と隔離し、
部屋も廊下も全部解放することだった。部屋も廊下も土足でそのまま歩けるようにした。
人々は思い思いの場所で座り込み、呆然と時間を過ごしていた。           
 園の人は紙や段ボール紙を回して、被災者に名前を書いてもらい、それをロビーに貼り
出した。そのまま夜になる。電気が使えない。電話も通じない。水も止まった。暗い不安
な夜はとてつもなく長かった。余震もあったが、建物がしっかりしていたので、壊れたり
という不安はなかった。避難した人の話も聞いたが、その夜は何も考えることが出来なか
ったという。                                  
 10数カ所に自然に別れた被災者。知り合い同士だったり、地域同士だったり、自然に
部屋ごとのグループが出来たという。園ではそれぞれにグループの代表を決めてもらい、
その代表を通して指示を出すようにした。これで最小限の混乱を防げた。       
 水は確保してあった分でしばらく大丈夫だった。翌日から支援物資が到着した。食料は
そのまま食べられるパンやドーナツが助かった。カップラーメンもあった、おかゆは水で
倍量にして配った。高寿園の非常食も順次出した。食器は発砲スチロールの皿にラップを
張って使い、自分の分は自分で管理してもらった。                 
 トイレは水が止まって水洗トイレが使えず、園にあったポータブルトイレをトイレの中
に設置し、各自が自分の排泄物を自分で処理する方法をとった。ビニール袋の排泄物を自
分で山に持って行って埋めてくる。中には林に入り込んで済ませる人もいたようだ。  
 着の身着のままの期間は一週間くらいだっただろうという。その後は支援物資が急速に
集まった。まず上着が来て、肌着や靴下はずいぶん後になったそうだ。        

 老人ホームという集団生活の場だった。施設もスタッフも集団生活に慣れていたので混
乱が少なかった。何より、建物に地震の被害がなかったのが大きかった。       
 当初、呆然として何も出来なかった被災者たちだった。園では午前10時と午後3時に
ラジオ体操の音楽を鳴らして全員に運動させた。体を動かす事が、気持ちを動かす一歩に
なった。                                    
 班を決めて、班長を決め、班ごとに自分たちの事は自分でやるという形が出来上がって
いったことも大きかった。掃除、片付け、整理整頓、やるべきことはいくらでもあった。
秩序が出来たことが一番大きかったという。                    
 4日後に電気が通じた。テレビの前に釘付けになる被災者。自分の家が、自分の町がど
うなったのか、初めて見る悲惨な映像に言葉を失った。高田の人であれば、酔仙酒造まで
水が来たということがどういうことかすぐにわかった。               
 高田が壊滅した・・・。現実が目の前に突きつけられた。             
 事務所は通常業務以外に避難所としての業務が重なった。晃さんは市役所との連絡係と
して多忙を極めた。市役所も壊滅していて、指示系統が混乱していた。園は避難所として
独自の判断で事を決める場面も多かった。多くの避難所が同じように、避難所独自の判断
で役所には事後報告という形になっていた。                    
 それが自然に出来たということが素晴らしい。                  
自然に班が出来、掃除や片付けの分担が決まり作業が行われた。 支援物資の整理や分配も自分たちの手でやった。子供達も手伝った。

 そのころ何が一番ありがたかったですか、と聞いたところ、即座に「携帯の充電器です
ね」という答え。携帯を持って逃げた人は多かったが、充電器を持っていた人は少なかっ
た。まだ電話は通じていなかった。携帯も通じたり通じなかったりだった。だが、被災者
はとにかく誰かと連絡を取りたかった。                      
 電話会社が届けてくれた充電器にみんな群がった。                
 NTTの伝言ダイヤルもありがたかった。ひとり二人分のコメントと決めて利用した。
晃さんも友人に伝言を入れる「こっちはこうだから、お前みんなに伝えてくれ」みなそう
いう形で利用した。                               
 衛星電話が市から貸与された。多いときで20人くらいが列になったこともある。高田
一中で電話が使えるようになり、ひとり2分の限定だったが、みんな並んだ。2分だけで
も外と連絡が取りたかった。また、連絡を取らなければならないことが多すぎた。   
 その後、携帯が通じるようになると、各自がそれぞれ電波状態の良いところを探し、夜
になるとみんな安否を確認していた。園では9時に消灯ということで決めていた。そっと
外に出て車の中で電話している人もいた。                     
室内の様子。これは秩序が出来てからのもの。最初は大変だった。 室内の様子。三ヶ月くらいからやっと人々から笑顔が見られた。

 毎朝、班長ミーティングをした。こちらからの連絡もするだけでなく、被災者の不満や
意見を聞き、役所に伝えた。                           
 トイレが欲しいと言われ、仮設トイレを10基市から借りた。掃除当番は班で決めても
らった。欲しい支援物資の内容も、緊急時とは違う物になり、それを市に伝える。   
 水は自衛隊の給水車が来るようになって解決した。しかし、お風呂や洗濯にはほど遠い
状況だった。みな川で洗濯したり、体を洗ったりしていた。             
 この頃から炊き出しが来るようになって助かった。支援物資の食料を朝と夜に回し、昼
は炊き出しで済ませる事が多かった。炊き出しは様々なグループが来てくれた。「この写
真はほんの一部なんですよ」とアルバムの写真を見せてくれた晃さん。「本当に感謝して
います。遠いところから来てもらって、ありがたいことでした・・」         

  事務所の作業は相変わらず多忙を極めていた。晃さんはこの時期7キロ痩せた。  
中でも大変だったのが、尋ね人の対応だった。東京などの遠くから何とかしてここまでた
どり着き、安否の確認が取れずにまた次の避難所に向かう人々。「廊下の隅でいいから寝
かせて下さい、明日の朝にはすぐ出ますから・・」そんな人が大勢いた。晃さんは朝食を
食べさせて送り出した。                             
 最初のころはみんな表情がなかった。みんな下を向いて歩いていた。この避難所だけで
なく、街全体がそうだった。徐々に、日を追って目線が高くなっていった。3ヶ月を過ぎ
る頃から笑顔も見えるようになってきた。                     
 下を向いていた人が前を見て歩くようになってきたのだ。「このままじゃあ仕方ない。
覚悟を決めようって事だったんでしょう・・」と自分も被災した晃さんが言う。    
 自衛隊のお陰で洗濯が出来るようになった。お風呂は巡回バスが走るようになった。3
ヶ月くらいから避難所は新しい局面を迎えるようになった。仮設住宅のハイピッチな建築
もあり、徐々に避難所としての機能を収束に向かわせつつあった。          
全国からさまざまな人が炊き出しに来てくれた。 ボランティアの若者が頑張ってくれた。本当に力になった。

 晃さんに、今回の経験で何が一番大切だと思いましたか、と聞いた。        
「お互い様、という相手を思いやる気持ちじゃないですかね・・」という答え。オールラ
ウンダーで何でもやらなければならなかった事務主任の言葉だ。           
 「高校生のような若い人が自分の力を分かってくれたのも大きかったですね・・」これ
は指導者としての言葉。大人達では行けないところまで行ける若い力。自分にしか出来な
い事をやって、みんなに喜ばれる若者。自分の判断で動き回る若い力に、周りはどれだけ
力づけられたことか。「日本の若者はすごいよ、ほんとに」ボランティアの若者もすごか
った。                                     
 極限状態で素の人間が見えた。口だけで動かない人。自分から率先してやる人。自然に
集まるべき人のところに集まる人々。日頃の生活態度がそのまま人としての評価になる、
厳しい側面も当然あった。こういう時だからこそ、本当のその人が見えたのではないかと
言う。                                     
 今回の震災で感じたことは、日本人の底力だった。被災した人が混乱せずに秩序を保っ
ていた。今日、その現実を聞くことができ、その報道が嘘でない事を知った。     
 あの混乱した極限状態の中で人々は自ら秩序を作り出した。誰に命令された訳でもなく
指示された訳でもなく。自分たちで最善の道を選んだ。こんなことが出来る日本人は本当
にすごい。報道を見て、全国で自分に出来ることをやろうという動きが自然に出たことも
すごいことだった。日本人であることを、これほど意識したことはなかった。     

 高田は必ず復活するし、東北は必ず復活する。それが実感出来たインタビューだった。