面影画82


9月16日の面影画は黄川田敏朗さん




描いた人 黄川田芙美子さん 五十八歳 妻                       

 敏朗さんと芙美子さんは幼なじみだった。保育所、小学校、中学校とずっと一緒だった。ただ
幼なじみだから結婚した訳ではなく、その後二十歳になるまでお互い意識した事はなかった。 
 成人式の集まりがあった後、みんなで小学校の担任の先生に挨拶に行った。その時に女先生か
ら「おめらどうだ?」という話が突然出た。その時は酒の席での話だったし、冗談だと思ってい
た。
何年かして、その先生から手紙が来た。内容は「お前ら結婚しろ」というもの。ついには二十四
歳になったころ電話がかかってきて「お前ら帰ってきて結婚しろ」と言う。         

 それまではただの幼なじみで、いい人だなとは思っていたという。お互いが意識し始めると、
後は早かった。そんなことがきっかけで結婚に至ったという珍しい展開。          

 「そういうのはお見合いでもないし、恋愛でもないし、なに婚って言うんですかね?」と聞い
たら、敏朗さんは「押しつけ結婚とでも言うんですかね・・」と笑う。           
 結婚式の仲人はもちろん、その先生夫妻にやってもらった。               
 小学校の時の担任でありながら、ずっと生徒達のその後を心配してくれた先生だった。今でも
年に何回か先生のところに挨拶に行く。                         

 芙美子さんの実家が薬局で、敏朗さんは婿に入る形での結婚だった。薬局では調剤と小売りを
やっていた。                                     
 芙美子さんは三十五歳くらいから薬局の経営をやるようになった。薬剤師でもあった芙美子さ
んは、きちんと仕事をする人だった。経営をするようになり、いっそう自分にも従業員にも厳し
い仕事を求めた。                                   
 間違いの出来ない仕事であり、薬剤師としての使命感も大きかった芙美子さんは従業員にも厳
しかった。その仕事ぶりから「おっかない・・」と言われる事も多かった。不正を嫌うまっすぐ
な真面目さで、周囲から信頼される薬局になっていった。                 
 結婚して二人の男の子に恵まれた。芙美子さんの厳しさは、子供のしつけにも向けられた。今
母の使命感を受け継いだ息子が、薬剤師として母の背中を追っている。           

 仕事場での厳しさは家庭ではどうだったのかと聞いたところ、帰って来た答えは意外なものだ
った。「いやあ、だらけてましたよ・・」実際には世話好きで、動物好きで花好きな人だった。
日曜日が休みで、いつも午後三時頃までのんびりしていた。                
 三時過ぎる頃から猛然と動き出し、洗濯、買い物、庭の手入れ、料理などなどバタバタっと仕
上げたという。夜更かしタイプだった芙美子さん、午前中はエンジンがかからなかったようだ。
というよりも、日曜の午前中だけが自分を解放出来る貴重な時間だったのだろう。      
 そんな訳で日曜日に出かけたり、行事があるのを嫌った。神経を使う仕事だったので、週に一
度の貴重な安息の時間を奪われたくなかったのだろう。                  

 三月十一日、敏朗さんは釜石の仕事場にいた。芙美子さんは薬局にいた。芙美子さんは地震の
あと、従業員をすぐに家に帰した。従業員は全員避難し、誰も犠牲になった人はいない。その後
薬局の片付けをせずにシャッターを下ろしている姿が見られている。            
 津波警報が出て、巨大な津波が高田の町を呑み込んだ。市役所横にあった家は何もかも流され
てしまった。なぜ、芙美子さんは避難しなかったのだろうか・・。             

 敏朗さんが言う「近所の写真屋さんが周辺のお年寄りを避難所に運んで、また町に戻って被災
しているんです。その奥さんとうちのが多分一緒に、動けないお年寄りをまとめていたんじゃな
いかと思うんです・・」                                
 薬局という仕事柄、どこにどんなお年寄りがいるのかは熟知していた。          
「写真屋さんのご主人に搬送をお願いして、奥さんと他の人も一緒に、お年寄りの家を回ってい
たんだと思うんです・・」                               
 その話は他の人からも聞いた事がある。たぶん、その通りだったのだと思う。       

 敏朗さんは釜石の仕事場が避難所になった関係もあり、高田には四日に一回くらいしか帰って
くることが出来なかった。友人の手も借りて、芙美子さんを必死で探した。         
 芙美子さんは、六月二十八日にDNA鑑定で発見された。遺体は三月十四日に上がった遺体だっ
た。混乱の極地にあった時期で、誰も気がつかなかった。敏朗さんも「見つけてやることが出来
なかった、申し訳なかった・・」と唇をかむ。                      
 遺体安置所がどこにあるのかも分からなかった時期だった。どうしようもない事だった。  

 警察から受け取った遺留品に腕時計があった。震災の一週間前、二人で東京に行った時に買っ
た腕時計だった。泥にこすれた時計がまだ動いていた。この時計は、芙美子さんの腕にあった時
からずっと時を刻み続けている。そして今、敏朗さんの手の中にある。           

 家にはネコがいた。名前はニャン吉という。今回の津波で家ごと流されて行方が分からない。
そのニャン吉を抱いて笑っている芙美子さんを面影画に描いて欲しいとのこと。       
 敏朗さんの思いを筆に込めて、丁寧に描かせていただいた。               

 敏朗さんの淡々とした話しぶりからは想像出来ないほど、芙美子さんを失った喪失感は大きい
はずだ。この絵がその大きな空白を埋める事は出来ないが、少しでも心の痛みが和らいでくれれ
ば嬉しい。                                      

 敏朗さんにおくる、最愛の妻、芙美子さんの記録。                   
 芙美子さんとニャン吉のご冥福をお祈りいたします。                  



 9月16日の面影画は黄川田敏朗さん。                        

 津波で亡くなられた奥様を描かせていただいた。                    

 薬局をやっていて、被災した奥様を三ヶ月間探した敏朗さん。六月末にDNA鑑定で発見される
まで、必死で探した。奥様の遺留品が警察から渡され、その中に腕時計があった。      
 震災一週間前に二人で東京に行った時に買ったものだった。時計は動いていた。思い出の品が
かけがえのない遺品になった。                             

 絵のリクエストは一緒に流されたネコを抱いているところを、というもの。敏朗さんの思いを
込めて、丁寧に描かせていただいた。                          

 この絵が喪失感を埋める事など出来ないが、少しでも敏朗さんの心が軽くなれば嬉しい。  

感情を抑えて、淡々と奥様の話をしてくれた敏朗さん。 二人で買った記念の時計が形見になってしまった。