面影画77


9月9日の面影画は鈴木英二さん




描いた人 鈴木明子さん 八十八歳 母                         

 明子さんは終戦時中国にいた。当時憲兵だった夫を助け、終戦と同時に軍服を捨てさせ、平民
に隠れた。中国軍は隠れた夫を捜しに来たが、ここも機転を効かして切り抜けた。      
 終戦の混乱はひどかった。八月に終戦して、中国を引き上げたのが十一月だった。     

 戦後の混乱期、名取に帰った夫と明子さん。明子さん二十一歳、本当にゼロからのスタートだ
った。何もない時代だった。明子さんは海岸で塩を作ることを考えた。浜によしずを並べ、そこ
に海水をかけて塩分濃度を上げ、最後は釜で煮て塩を作った。               
 製材所のおがくずを分けてもらって燃料にした。二人は朝から晩まで働いた。三本柱の掘っ建
て小屋が住まいだった。隙間から見える星で時間を見るような生活だった。         

 何もない時代、塩はよく売れた。八月に名取に来て、十一月には小さい家が建った。寝る間も
惜しんで働いた結果だった。このころは毎日三時間くらいしか寝ないで働いていた。     
 塩の利益で船を買った。大洋丸という船だった。しかし、これは半年しか続かなかった。漁師
が働かず、酒を飲んでばかりだったので赤字続きになり、結局やめた。           

 明子さんは夫にはかり、同じような境遇の人(引き揚げ者)を集めて開拓農業協同組合を立ち
上げた。ちょうど仙台空港の土地払い下げがあり、三ヘクタールの農地を払い下げてもらうこと
が出来た。                                      
 それからは農業を基盤にした事業展開が始まった。田畑をやりながら明子さんはサラシ飴作り
を始めた。米粉と麦芽を材料にしたシンプルなものだったが、甘いものが不足していた時代、本
当に良く売れた。                                   
 次は野菜くずを使って飼える豚の飼育を始めた。これもよく売れた。明子さんは時代の先を読
める人だった。手間を惜しまず、お金をかけず、利益を上げる天性の勘を持った人だった。  
あとから追いかける人が多くなって利益が薄くなる時には別の事業を展開するという天性の実業
家でもあった。最終的には、十七種類もの事業を手がけることになる。           

 昭和三十二年に新しい家も建ち、事業も順調だった。明子さんはまだ赤ちゃんだった女の子を
養女に向かえ、忙しい中で子育てを始める。家にいてもできる仕事を・・ということで養鶏を始
めた。卵を生産して売る事業だ。                            
 餌を工夫した。浜で廃棄物となるカマボコの余りを魚粉にする。草を刈って来てチョッパーで
刻む。これまた廃棄物の米ぬかをもらってくる。この三つを組み合わせると高級な鶏の餌へと変
わる。普通の養鶏の半分の餌代で経営ができた。                     
 お金をかけずに手間をかける、の精神はここでも生きていた。また、この餌で育った鶏が生ん
だ卵の質が良かった。放し飼いで三千羽もの鶏を飼っていた。               

 ちょうどこの頃、英二さんが養子に入り、養鶏を意手伝い始めた。先の養女は英二さんの妹だ
った。明子さんは事業の成長だけではなく、継続するための一族を作り始めた。この子育ても明
子さんのおおきな仕事だった。                             

 昭和四十二年には材木の切り出しもやった。パルプ需要が高まったためで、大手の大昭和製紙
と入札競争になり、それに勝った。明子さんは百町歩の山を自分の足で歩き、パルプ材になる木
を全て自分で計った。目分量の山師がかなうはずはなかった。               
 自分の感覚を大事にする人だった。実業家として天性の勘をもっていたとしか言いようがない
と英二さんは振り返る。専門家でもない母が山歩きをして、自分なりの計算でプロに勝つという
現場を見ているのだからなおさらだ。                          

 養鶏はずっと続けていた。そんな折り、仙台空港拡張の話が出た。時代は東京オリンピックに
わきたっており、確実に高度経済成長への道を歩き出していた。              
 明子さんは「これからは自動車の時代だ!」と時代の先を看破する。仙台空港拡張のため、二
ヘクタールの土地を買収されたが、残った一ヘクタールで駐車場を始めた。この駐車場は一等地
で、現在も事業の柱になっている。                           

 八十八歳、まだまだやることがいっぱいあった。英二さんにしてみればまだまだ後見として頑
張ってもらわなければならなかった。                          
 しかし、病に倒れあっという間に今年の二月に亡くなってしまった。日頃から口にしていた「
ぴんぴんころりがいいよね・・」という言葉の通りの最後だった。             

 英二さんは生前、母から大事な言葉を二つ贈ってもらった。一つは「生きている限りお金は必
要だよ」。もう一つは「一寸先は闇なんだから」という言葉。この二つの言葉を翌三月の十一日
に英二さんは痛感することになる。                           

 三月十一日、英二さんは病院にいた。大きな地震があり、英二さんは家に戻った。しかし誰も
いなかったので会社である駐車場に行った。そこに従業員が帰ってきて、みな仙台空港に避難し
ているという。津波が来るという事を英二さんは知らなかった。              

 片付けを中断して外に出た。見ると八百メートル先から津波が来るのが見えた。あわてて車に
乗って空港に逃げる。空港の二階に逃げればなんとかなるだろうと必死だった。二階の階段を上
がった時津波は五十メートルの距離にまで近づいていた。                 
 この時、英二さんは多くの津波に飲まれた人を見た。階段にまでたどり着けなかった人はみな
車ごと流された。空港の見取り図が頭に入っていて、最短距離で逃げたからこそ、あやうく助か
った。背筋が寒くなるというのはこういうことだ。                    
 その後の仙台空港の様子はテレビで再三放送されたので記憶に新しい。まさに惨状を呈した。

 あやうく助かった命。母の言葉をかみしめる。母の供養の為に三重塔を建立しようと思ってい
たが、そのお金を会社の復旧、復興に使う。その蓄えがあったからこそ、すぐに事業が再開でき
た。従業員を解雇することもなかった。                         

 名取から時間をかけて面影画に申し込みに来てくれた。その思いは母への感謝だ。     
 にっこり笑った明子さんを描かせていただいた。                    
 この絵が、今後の英二さんに少しでもやすらぎを与えてくれれば嬉しい。         

 英二さんにおくる、すばらしいお母さんの生きた記録。                 
 明子さんのご冥福をお祈りいたします。                        



 9月9日面影画は鈴木英二さん。                           

 亡くなられたお母さんの絵を描かせていただいた。                   

 英二さんのお母さんは震災前の二月に病気で亡くなられた。               

 英二さんは勤め先で被災した。仙台空港の近くの会社で、津波から逃げ、仙台空港にかろうじ
て逃げ込んで助かった。その後の再建を母の遺言で乗り切ってきた。そんな英二さんがテレビを
見て、名取市から「是非に」と面影画に申し込んでくれた。                

 事業の先達として何もかも教え、導いてくれた母に対する英二さんの思いは深い。そんな英二
さんの思いを筆に込めさせていただいた。                        

 英二さんのこれからの人生、この絵が背中を押してくれるようになれば嬉しい。      

お母さんへの感謝の気持ちが強い英二さん。名取りから来てくれた。 まだまだ暑い日が多い。この日はテント裏の日陰で絵を描いていた。