面影画54


8月9日の面影画は阿部ひろみさん




描いた人 福田勝男さん 六十五歳 父                        
     福田けい子さん 六十一歳 母                       

 勝男さんは、若い頃東京で働いていた。いろんな仕事をしたが、最終的には実家とおなじタ
イル屋さんで働いていた。                              
 けい子さんは茨城の出身で、小さい時から苦労して育った。長女だったけい子さん、小学時
代から魚市場の手伝いをして、ご飯を食べさせてもらうような育ち方をした。       
 中学を出て東京に向かい、家政婦の仕事をしていて勝男さんと知り合った。       

 二十二歳と十八歳、若い二人だった。ひろみさんはその頃に生まれた。子供が出来て、仕事
を安定させたかった勝男さん。実家から「こっちで子供を育てたらどうだ?」という誘いを受
け、それに従った。                                 
 高田に帰った勝男さんは実家の兄のタイル屋を手伝って働いた。一方けい子さんは、若い嫁
だったこともあり、周囲の視線が厳しかった。他郷からの嫁は、土地勘も方言も違い、友だち
もいないということもあり、孤立しがちなものだ、けい子さんは歯をくいしばって頑張った。
 ひろみさんや、その後に生まれた長男のしつけは特に厳しかった。「誰からも何も言われた
くない」そんな思いがけい子さんの胸にはあったのだろう。               

 勝男さんは五十代の頃、人生の道を迷ったことがあった。たまたま通っていたパチンコ屋さ
んの主人と親しくなり、景品交換所を手伝うようになった。その後も付き合いは深まり、新規
店舗出店の共同出資を持ちかけられた。その話に乗ってしまった勝男さん。        
 大きな負債を抱えることになってしまった。また、そのことでけい子さんとのいさかいが絶
えなくなった。                                   
 実家に戻った勝男さんだったが、今度は糖尿病を発症してしまう。腎臓を悪くして普通の仕
事はできなくなり、町内会の区長を仕事にするようになった。              
 いろいろあった勝男さんだったが、子供から見ると、子煩悩でやさしい父親だった。   

 けい子さんは実家のお花屋さんの手伝いをしていた。前述したように、厳しい環境で生活し
ていたけい子さん。大船渡線の列車を見ながら「これに乗れば実家に帰れるんだといつも思っ
ていた・・・」とつぶやいた母の横顔を、ひろみさんは思い出す。            
 そんなけい子さんも四十年も住んでいるうちに高田が地元となり、友だちも増え、自転車で
市内を自在に走り回るようになっていた。                       
 お金には苦労したけれど、人生で一番大切な友人に恵まれた。             

 ひろみさんから見たけい子さんは「逆境に強い人ですね。つらい事があってもそれを周囲に
見せずに笑っている人です。父もそれで助けられたと思いますよ・・」          
 子供時代から苦労して育った長女と、のんびりと可愛がられて育った末っ子の違いが如実に
出ていた夫婦だった。家の精神的支柱はけい子さんだった。               

 借金のことでいさかいが絶えなかった二人だが、半年前、ひろみさんの弟の了(りょう)さ
んが東京から帰ってきて、様子が変わった。けい子さんは勝男さんにやさしくなったのだ。二
人より三人とはよく言ったもので、最近はすっかり仲のよい夫婦になっていた。      

 三月十一日、けい子さんは近所の家に手伝いに出かけた。その日の朝はすごいご馳走だった
。「今夜遅くなるから、これを食べておいて」と言い残して出かけたけい子さん。勝男さんと
了さんは、けい子さんが出かけてから食事をした。                   
 大きな地震があった。けい子さんはすぐに自宅に戻った。身の回りの荷物をまとめ、避難所
になっている市民体育館に急いだ。                          
 市民体育館では区長(防犯協会長も兼ねていた)の勝男さんが避難してくる人を誘導してい
た。そこに真っ黒い巨大な津波が襲った。高田の町は一瞬で津波に呑み込まれた。     
 市民体育館は全てが津波に流されてしまった。なすすべはなかった。          

 子供三人は互いに連絡を取り合いながら両親を探した。毎日、遺体安置所を回る日々が続い
た。そして、三月二十六日に勝男さんが竹駒で、四月二十日にけい子さんが小友(おとも)町
で上がった。遺体が上がったといっても、最終的にはその後のDNA鑑定で確認されたというこ
とになる。最初に分かったのはけい子さんだった。翌日、勝男さんが確認された。五月の末の
事だった。                                     

 「じいちゃんが先に出ると、ばあちゃんに怒られるから一日待ってたんだろう・・」などと
三人で話した。今度の事では、両親と同居していた了さんの喪失感が特に大きい。     
 ひろみさんはこの絵を了さんに持っていてもらうという。「両親が一番心配していたのは了
のことでした。そして、両親と過ごした時間が一番短かったのも了でしたから・・・」   

 了さんの喪失感を埋める事は出来ないだろうが、この絵が少しでも了さんの背中を押してく
れれば嬉しい。ひろみさんの、了さんへの思いを込めて描かせていただいた。       

 ひろみさんにおくる、苦労したご両親の生きた記録。                 
 勝男さんとけい子さんのご冥福をお祈り致します。                  



 8月9日の面影画は阿部ひろみさん。                        

 津波で亡くなられたご両親を描かせていただいた。                  

 若いときから苦労したお母さんと、歳が行ってから苦労が多かったお父さん。避難所に避難
していて津波に流された。両親を必死で探す三人の子供。                

 ひろみさんは淡々と話してくれたが、その内容は凄絶だ。               

 ラフスケッチを確認に来た時にひろみさんが言った「今日は久しぶりで両親の話をいっぱい
したので、帰るとき涙が止まりませんでした。でも、良かったです・・」         

 時間が少なくて、絵は少々不満足な仕上がりだが、時間いっぱい頑張った結果だから仕方な
い。この絵が、残された三人の子供たちに、両親を思い出さてくれるなら嬉しい。     

久しぶりに両親の話が出来て良かったと涙ぐんだひろみさん。 テントの横のイチイの実が真っ赤に色づいた。甘い実を食べた。