面影画45


7月24日の面影画は米沢祐一さん




描いた人 米沢節祐(ときすけ)さん 74歳 父                   
     米沢静枝さん 70歳 母                         
     米沢 忍(しのぶ)さん 38歳 弟                    

 節祐(ときすけ)さんは、若い頃に製菓原料問屋で働いていた。その経験と実績から包装資
材のお店を高田で開業し、釜石や宮古まで注文を受けるほどの信用を得ていた。      
 会社の名前は米沢商会という。人柄が注文を生む包装資材業、節祐さんが築いた信用は絶大
だった。まじめで、朝から夜遅くまで働いていた。                   

 静枝さんは祖父が文化服装学院の先生をしていたこともあり、洋裁が得意だった。学院を終
了し、免許も取っていたが、その技を生かす前に結婚した。それでも自宅で洋服を作ることが
あった。祐一さんの小学校入学式の服やカバン、普段着なども静枝さんが作ったものだった。
 静枝さんは子供思いでやさしいけれど、時には厳しくしつけをする人だった。料理も上手で
、テレビで見た料理をすぐにその晩作ったりした。静枝さんが作った料理は何でも美味しかっ
た。                                        

 節祐(ときすけ)さんが静枝さんと結婚したのは、節祐さん25歳、静枝さん21歳の時だ
った。依頼、夫唱婦随で人生の荒波を乗り切ってきた。仲のよい夫婦だった。       
 3人の子供に恵まれた。長男の祐一さんは節祐さんと一緒に米沢商会をやっている。長女は
結婚して盛岡にいる。次男の忍さんは東京と高田を半年毎に往復するような形で仕事をしてい
た。税理士の卵でもあった忍さん、ゆくゆくは米沢商会の経理担当になる予定だった。   
 忍さんは申告の手伝いで12月から高田に帰ってきていた。ケーキ作りが得意で、誰かの誕
生日には自作のケーキでお祝いをするのが忍さんの楽しみだった。美味しいケーキはみんなに
喜ばれた。                                     
  一緒に暮らす家族がみんな仲良く、何でも話せる家族だった。祐一さんの自慢だった。 

 祐一さんは昨年結婚し、この2月に待望の娘を授かった。初めての内孫ということで両親の
喜びはひとしおだった。節祐さんは、生まれて来たばかりの孫に向かって「本当に生まれてき
てくれてありがとう」と頭を下げたという。                      
 「孫も出来たし、歳だし、そろそろ店は祐一に任せて、孫の世話でもするか・・」節祐さん
がそんな事を言いはじめた。祐一さんも、やっと孫が出来たし、これから親孝行しなくては・
・と思っていた矢先の悲劇だった。                          


 3月11日、ちょうどこの日が一ヶ月のお宮参りの日だった。矢作町の神社の百段もある階
段を、静枝さんが孫の多恵ちゃんを抱いて登った。元気なおばあちゃんだった。      
 無事にお宮参りを済ませて家に帰ったところに大きな地震が来た。店は市役所の近くにあっ
た。三階建てで屋上もあるビルだった。散乱した品物に埋もれながら、祐一さんはさっき別れ
たばかりの奥さんと子供を心配して、何度も携帯に電話した。奇跡的に一回だけつながり、無
事が確認出来た。                                  
 同じ車に奥さんの両親も乗っていた。大船渡病院近くの交差点だった。祐一さんは「大船渡
病院に逃げろ!そこなら子供が一緒でも安心だ!」この一言が奥さんとご両親、多恵ちゃんを
津波から救う事になった。                              

 祐一さんの会社を津波が襲う。屋上から外に出た煙突の上で、足まで波に洗われながら必死
で耐えた。そのまま丸一日、祐一さんは耐えた。水が引いても5メートルの水位は減らない。
余震の度に津波が来る。下は瓦礫で何もかも埋め尽くされている。とても下に降りられる状態
ではなかった。その日、雪が降って震える寒さだったが、祐一さんは自衛隊のヘリが救出に来
るまでそこで耐えた。                                

 津波が来る5分前まで節祐さん、静枝さん、忍さんも一緒だった。地震の後、避難所になっ
ている市民会館に三人はいた。そこに巨大な津波が襲い、何もかも流してしまった。「避難所
に行っていたのに・・何で・・・」祐一さんの声が詰まる。               

 最愛の家族を三人も失うつらさは経験した人でなければわからない。その悲嘆は余りに大き
い。祐一さんは話している間、ずっと涙が止まらない。                 
 津波のつい何時間か前に神社で、安全祈願、健康祈願をしたばかりだった。全員で撮った笑
顔の写真はいまだ見ることができない。「なんでこんな事になっちゃったのか、悲しいし、悔
しい・・」祐一さんは仕事のあと、毎日思い出して涙が出るという。そして、それを見て奥さ
んも泣いてしまうのだと涙ながらに言う。「妻を悲しませちゃいけないって分かってるんです
けど・・どうしようもなくて・・・」涙が止まらない。                 

 節祐さんは3月末に発見された。すぐに荼毘に付そうとして決めた通夜の前日に静枝さんが
見つかった。仲が良かった夫婦だから一人じゃ淋しいからって呼び合ったんだろうね・・とみ
んなで話した。不思議なことだけど、本当に一緒に送ることができて良かったと祐一さん。 
 忍さんは、6月に入って発見された。奥さんが「新聞にそれらしい人が出てるよ」と祐一さ
んに知らせてきた。今までそんな事は一度もなかったのだが、祐一さんもたまたま仕事の合間
に見に行ったら、間違いなく忍さんだった。                      
 持ち物で分かった。津波が来る5分前まで一緒だった弟。軍手も財布も下着も見覚えある物
だった。忍さんに間違いないが、手続き上DNA鑑定をしなければならない。まだ結果が出てい
ないので忍さんはまだ家に帰ってきていない。                     

 奇跡のような判断で、妻と子供と妻の両親は助かった。一方、最愛の家族3人を失った。祐
一さんの悲嘆は大きい。しかし、前を向かなければならない。              
 父が一人残っても、母が一人残っても、弟が一人残っても事業の継続は難しかった。祐一さ
んには妻がいて、子供がいて、仕事がある。父が起こした事業を、父の名を汚す事なく続ける
事が一番の親孝行だ。                                
 大きな力で祐一さんの背中を押してやりたい。                    

 面影画のリクエストは節祐さんを中心に右に静枝さん、左に忍さんをレイアウトして、笑顔
で描くというもの。                                 

 三人の面影画は初めてだが、頑張って描こうと思う。                 


 祐一さんにおくる、最愛の家族の記録。                       
 節祐さん、静枝さん、忍さんのご冥福をお祈り致します。               




7月24日の面影画は米沢祐一さん。                         

 津波で亡くなられたご両親と弟さんを描かせていただいた。              

 最愛の家族三人を失うつらさは、経験した人でなければ分からない。私はただただ話を聞く
だけだった。                                    
 祐一さんは話しながらも涙が止まらない。聞いている私も涙が止まらない。       
 話す事すらつらい事だと思うが、それでもしっかり話してくれた。私もしっかり、正面から
受け止めた。                                    

 面影画のリクエストは三人で笑っているところ。三人一度に描くのは難しいが、がんばって
描かせていただいた。                                

最後まで涙が止まらなかった祐一さん。頑張って欲しい。 今日も重い話を預かってもらう為に、氷上神社へ参拝する。