面影画25


6月26日の面影画は船本洋子さん




描いた人 船本榮子さん 70歳 母                         

 榮子さんは昔スポーツウーマンだった。市民ランナーとしてマラソンを走ったり、卓球をや
ったりしていた。卓球は、家にピンポン球をぶら下げてスマッシュの練習をするなど、熱心に
やった。マラソンも膝を壊したりしなければ、今でも続けていたはずだ。         

 23歳で結婚した相手は船乗りだった。41歳の時に不幸が襲う。自慢の夫が事故で亡くな
った。長女の洋子さんが18歳の時だった。                      
 英子さんはその後、とても苦労して子供たちを育てた。調理師の免許を取って、食堂で働い
たこともあった。料理は好きだったし、上手だった。何でも美味しかったと、娘の洋子さんは
言う。                                       

 日本舞踊が好きだった。楽しそうに踊っている写真がある。満面の笑顔だ。生け花もやって
いた。花が好きだった。同居していた洋子さんが「花を切らしたことはなかったと思う・・」
と言う。「でも、けんかばかりしてたんですよ・・」仲がいい二人ほどけんかするものだ。 

 そんな榮子さんだったが、昨年くも膜下出血を起こし、大船渡の病院で手術をした。その後
は厳しいリハビリが待っていた。盛岡のリハビリセンターで歯を食いしばってリハビリし、車
の運転が出来るまで体の機能を回復させた。年齢を考えればすごいことだ。        

 3月11日、洋子さんは勤め先にいた。そこに地震が来た。その後に来た津波から洋子さん
は必死に逃げた。そして、逃げ切った。                        
 一方、榮子さんは、わかめの仕事の手伝いに行っていた。地震が来て、榮子さんはそこで働
いていた人二人を車に乗せて、大船渡まで送って行った。高台にある自分の家の前を通って・
・・。その時、家で待機してさえいれば・・・                     

 榮子さんは二人を送って、家に帰る途中で津波に襲われた。              

 誰も、あんな大きな津波が来るとは思っていなかった。                

 洋子さんはまだ津波に追われた恐怖や、母を失った現実を消化できていない。      
あり得ない現実、理不尽な出来事、なぜ母さんが・・                  
 面影画を描いていることがつらくなるのはこういう時だ。               

 洋子さんが言う「苦労ばっかりだった人なので、せめて天国では明るく楽しくしてて欲しい
・・・」絵のリクエストはカサブランカの前で微笑む榮子さん。             

 この面影画が、少しでも洋子さんの心を安らかにしてくれればと願うしかない。     

 洋子さんにおくる、やさしかったお母さんの記録。                  
 榮子さんのご冥福をお祈り致します。                        




 6月26日の面影画は船本洋子さん。                        

 津波で亡くなられたお母さんを描かせていただいた。                 
 おじさんの鈴木正也さんと一緒に来られ、お母さんのことをいろいろ話してくれた。   

 話を聞きながら、まだ洋子さんがお母さんが亡くなったことに対して、自分の気持ちを整理
出来ていない事が何となく分かる。こういう場合、詳しい話を聞きにくい。        
 鈴木さんも交えて、昔話を中心に話を聞く。                     

 洋子さんのリクエストは、明るい色の服を着て、カサブランカの前で笑っているお母さん、
というものだった。預かった写真がそれぞれ違う顔に写っているので、今回はラフスケッチま
でが難しかった。洋子さんの指示で何度となく修正を加える。              

 なかなか思うように出来ない。                           

 OKが出て、お二人が帰った後も納得出来ず、一時間くらいスケッチと格闘した。     

 難しかった。                                   

 絵の受け取りは、洋子さんの仕事の関係で、おじさんの鈴木さんが見えられた。     

 どうか、少しでも洋子さんの心に届く絵でありますように。              

絵を受け取りに来られた、洋子さんのおじさん。 とにかく晴れると暑い。