面影画19


6月19日の面影画は古澤弥代子さん




描いた人 飯塚泰子(やすこ)さん 84歳 母                    

 泰子さんは何でもやる人だった。新聞やインターネットに載っていることを、次から次にや
ってみる人だった。そう、80歳を過ぎてからパソコンに挑戦し、今ではインターネットを自
由に使いこなしていた。何でも挑戦する人だった。                   
 人付き合いが良く、誰にでも慕われ、ひとり住まいの家は「飯塚喫茶」と呼ばれて、いつも
人が集まるたまり場になっていた。シニアランド、お年寄りの間で人気者だった。     

 泰子さんは、弥代子(やよこ)さんに、テレビで見た昔の服をリフォームするお店をやらせ
ようとしていたが、今度の事でそれはかなわなくなった。                

 父は役場の課長だった。そのころの部下が定年になってからも「課長いるかい?」と言って
遊びにくるような家だった。とにかくいつも人が集まる家だった。            
 
 泰子さんは高田でいろいろな商売をやった。高田せんべいを最初に作ったのも泰子さんだっ
た。お茶屋さんをやったり、食品店をやったり、下宿屋をやったりもした。当時、下宿してい
た銀行の人だとか学校の先生だとか、今でも手紙が来たり、挨拶に来たりする。      
 まあ、そんな関係で知り合いがとにかく多かった。                  

 下宿屋などは、仕事というよりもボランティアのようなものだった。ボランティアと言えば
、弥代子さんには忘れられない思い出がある。                     
 チリ地震の津波が来たときだった。弥代子さんとお母さんは一週間という長い間、おにぎり
を役所の父の職場の職員全員に差し入れした。個人でそれだけの事を普通にやる母だった。 

 弥代子さんは四人姉妹の長女だった。母の泰子さんとは十九歳しか違わず、一緒に歩いてい
ると、よく兄弟に間違えられた。顔も性格も似ている。「私が母の性格を一番濃く引き継いで
いるんです・・、今でも市の広報なんかで何か教える教室なんかがあると、つい挑戦しちゃう
んですよ・・似てますよね・・」と笑う。                       

 泰子さんは俳句をやっていた。東海新報の俳句欄に泰子さんの俳句が載っている。    

 「松風句会・1月」 セーターを少し派手目の八十路かな  飯塚泰子         

 この句を絵に描き入れようと思う。                         
 3月11日、泰子さんは家にいた。和光堂の孫が心配して迎えに来た。「妹と一緒に逃げる
から、お前は早く逃げ!」と家で妹を待っていた。孫は無事に逃げたが泰子さんは・・・  

 車はNTTの裏で見つかった。泰子さんと妹の遺体は損傷が激しく、最終的にはDNA検査で確
認された。何度も見ていた遺体だったが、外見ではまったく分からなかった。       
 車の中の泥をかき出したら、バッグが出て来た。二人は車で逃げようとして走っている所を
津波に襲われたのだろうと、弥代子さんは言う。                    
「車から放り出されちゃったんだろうね・・」遺体は二人ともかなり離れた場所で見つかった
。確認後、すぐに火葬した。警察の鑑識ノートには、ネックレスを右手にしっかり握っていた
と書かれていた。                                  
 孫が「おばあちゃん、健康に・・」と贈った磁気ネックレスだった。          

 弥代子さんにおくる、多くを引き継いだお母さんの記録。               
 泰子さんのご冥福をお祈り致します。                        



 6月19日の面影画は古澤弥代子さん。                       

 津波で亡くなられたお母さんを描かせていただいた。                 

 何でも率先してやる、誰からも慕われた母、泰子さん。いつも下向きの写真しかなかった。
リクエストは上を向いて、笑顔のお母さん。難しかったけれど、良い絵が描けた。     
 紹介してくれた菅原さんも「そっくりです!」と喜んでくれた。            
 ちょうど今日が百日法要だとのこと。ちょうどいい機会に絵が出来上がった。      

 この絵がお母さんを思い出す記録になれば嬉しい。                  

昼、差し入れのキュウリの漬け物がじつに旨かった。 今日がちょうど百か日法要だった弥代子さん。喜んでくれた。