面影画14


6月13日の面影画は内舘幸子さん




描いた人 内舘 稔さん 79歳 夫                       

 稔さんは気仙大工だった。努力家で勉強家、若干25歳で一級建築士の免許を取るくら
い優秀だった。しかし、性格が温厚でおとなしい稔さんは、年上の人に仕事を指示したり
指導したりするのが苦手だった。                         
 どんどん前に出る人であったなら、別の人生もあったのだろうが、稔さんは、こつこつ
と好きな、凝った仕事をやるタイプだった。一級建築士の免許を持っていることすら公表
しようとしないような人だった。                         
 おじさんが北海道で会社をやっていて、そこでずっと働いていた。         

 幸子さんによると、結婚はおばあちゃんの政略結婚だったのだという。そのへんの複雑
な事情は部外者にはわからない。                         
 ともあれ、幸子さんと結婚した稔さん。子供が生まれたのをきっかけに、おじさんの会
社を辞めて東京の会社に勤めるようになった。幸子さんも一緒に家族で東京に行った。 
 幸子さんは、都内の病院に働き口を見つけて働いていた。             
 忙しい稔さんだったが、休みの日には幸子さんと一緒に、大好きな歴史関係の資料館や
博物館や史跡を見るのを楽しみにしていた。                    

 東京で定年退職を迎えた稔さん。ある日、ふと歩いていたお寺の前で、何かに吸い寄せ
られるように門に入っていった。そして口から出た言葉「何か手伝える事はないですか」
東京、新宿、大龍寺・・ちょうど人手が足りなくて募集しようとしていたところだった。
 仏様の声に導かれたとしか言いようがないと、稔さんは幸子さんに後で言った。   

 歴史関係に詳しかった稔さん、宗教関係にも増資が深く、すぐにお寺の仕事に溶け込ん
だ。檀家さんから信頼され、頼りにされるようになるまで時間はかからなかった。   
 そして、ここで7年間ほど勤めた。                       

 二人が高田に帰ってきたのは、八年前におじいちゃんが亡くなったからだった。   
 やっと、生まれ故郷に帰った二人だった。子供の頃から地震や津波について教えられ、
そんな時はどう行動するか、二人で話し合っていた。                
 とにかく、一番近い避難所に身を置いて、落ち着いたら幸子さんの職場が高台にあるの
で、そこで会おうということにしていた。                     

 仏様の近くに身を置き、何か感じるものがあったのだろうか、稔さんは地震の一週間前
に仙台の息子に電話している。「おやじから電話があったけど、何かあったのかい?」と
息子から幸子さんに電話が入った。稔さんは「いや、声が聞きたかっただけなんだ」と言
う。                                      
 地震の二日前には実家に寄っている。普段はそんな事はしないのに・・・      

 そして、3月11日。幸子さんの職場は高台にあったので無事だった。稔さんは家ごと
流されて行方不明になってしまった。                       
 宮古の娘の家は海岸の近くだった。家ごと津波をかぶった。娘は、ヘドロまみれになり
ながら引き波の時に車から飛び出して、孫の手を引いてヘドロの中を走って高台に逃げた
。孫は長靴をヘドロにとられ裸足になってしまい「痛い、痛い」と言う。       
 娘と孫は津波の第二波から無事に逃げ切った。その時孫が言った言葉「痛いよお。だっ
て、おじいちゃんが逃げろ逃げろ!って背中をズンズン押すんだもん・・」      

 稔さんは自分の事よりも孫のことが第一だった。魂は確実に孫を助けに向かっていた。

 幸子さんの職場は被災者がたくさん                       
集まり、避難所になっていた。目が回るような忙しさだった。喧噪が一段落して、幸子さ
んは稔さんを探す。探しても探しても見つからなかった。              
 遺体安置所の遺体は損傷が激しく、外見を見ただけでは分からなかった。幸子さんは爪
の形と手や足の大きさで探していた。                       
 気になる遺体があった。息子は「違うよ」と言うが、どうしても気になって、警察の人
にDNA鑑定をお願いした。結果は四日後に出た。間違いなく稔さんだった。      

 不思議だよね、あの時「DNAで・・」って言わなかったら会えていないんだよね。稔さ
んが呼んでいたとしか言いようがない。                      

 幸子さんはまだ津波のショックや、稔さんを亡くしたことが自分で消化出来ていない。
一度、東京の友達の所に行って、思い切り泣いたらいいのかもしれないと言う。    
 そうかもしれない。避難所で「私より大変な人がたくさんいるんだから、弱音を吐いち
ゃいけない・・」と自分にいい気かせてきた。気が張っている間は大丈夫だが、ふと、こ
の先を考えた時、稔さんがいないことに気づく。                  

 失ったものの大きさが、その時わかる。                     

 幸子さん、泣いていいんです。幸子さんは被災したんです。大声で泣いていいんです。
そして、泣き終わったら、稔さんを弔いましょう。                 

 幸子さんが稔さんを想って作ったうた一首                    

   思わじと思えどなおも思われていまだまぶたに涙とどむる  幸女       


 幸子さんにおくる、いつも笑顔だったご主人の記録。               
 稔さんのご冥福をお祈り致します。                       



 6月13日の面影画は内舘幸子さん。                      

 津波で亡くなられたご主人を描かせていただいた。                

 いろいろ話を聞かせていただいた。勤務場所が図らずも避難所となり、目が回るような
日々だったという。                               
 家ごと、何もかも流されてしまい、ご主人もいない。               

 避難所に来ている人はもっと大変なんだから、自分は頑張らなくちゃ・・と自分に言い
聞かせてきた。                                 
 じっくり話を聞かせていただいた。                       
 少しでも話して、吐き出す事で心が楽になるのであれば、いくらでも聞きたい。   

 ご主人の絵はそっくりだと言ってくれた。                    
涙を流して喜んでくれた。                            

信心深いご主人の話をたっぷり聞かせてくれた幸子さん。 テント裏には被災した方が育てている花や野菜がいっぱい。