瀬音の森日記 169


大ケヤキは切られてしまうのか!



2001. 1. 29


1月29日(月)大久保駅北口に数人の人たちが集まった。新宿区百人町4丁目の都
営住宅敷地内にある大ケヤキを伐採から守ろうという人たちの集まりだった。先週の
金曜日にこの話を聞き、樹木医を探しているという話を聞いた。森林インストラクタ
ーでは役不足だが、樹木の専門家のはしくれとして同行する事になっていた。   

その大ケヤキは工事現場の奥の方に3メートルの高さの鉢を伏せたような台に乗って
いた。近づいて良く見ると、ケヤキの周辺の土だけが残されて他を整地してあるため
そこだけポッカリと小高くなっているのだった。幹廻り2.7メートル、高さ17メ
ートルで雷からも、戦争からも、大震災からも生き残ったケヤキである。推定樹齢は
200年と言われている。                          

1月25日に伐採される事になっていたが、反対住民の声を聞き、2月2日まで延命
されたという経過を持つ。伐採反対の住民は2日までに都の計画を覆せる計画を提出
しなければならない。都では2名の樹木医から「移植しても数年で枯れる」という結
論の報告書を受け取っており、その報告書に基づいて伐採する事になったのだ。なお
、ケヤキが区の木である新宿区は都に対して敷地内に移植することを要望している。

雪の残る工事現場のぬかるみに足を取られながら、参加者は大ケヤキを見上げ、状況
を確認する。(財)日本緑化センターの掘さんを中心にした人の輪が大ケヤキの周り
をぐるぐる廻る。足場を切ってもらい3メートル上の根元まで全員で登り、根の張り
具合を見ながら堀さんの話を聞く。                      

大ケヤキは元部に腐れが入り、これは煙突のような太さの幹を貫通している。一見太
そうに見える幹は芯腐れの可能性が高い。芯が腐っても樹木は形成層で生きているの
だから関係ないと言えば関係ないが、雷が入った場所や太い枝を切り落とした跡が腐
っており、健全な状態であるとは言えない。                  

根張りが強く、板根状になっている。これは根が横に伸びられずに下に向かって伸び
ている事を表している。聞くと、大谷石で囲われた中で育っていたらしい。木の周辺
がポッカリと残っているのは、その大谷石をはずした後に建築土をブルで寄せたもの
らしい。今の状態でもあまり樹木にとって良い状態ではない。          

移植の方法については堀さんの話を聞くだけだった。私にはその知識がない。早急に
移植する事が必要であり、通常行っている根切りや根鉢作りが出来ないというハンデ
ある移植となる。通常2年から4年かけて根切り又は根の皮を剥いて、そこから細根
を生やす方法を取るのだが、それが出来ないとなると枯れる可能性はかなり高い。 

また、移植先の土壌が敷地内の掘り固められた建築土では、コンクリートのように締
まっていて水はけが悪く、根が伸びるられる可能性が少ない。さらに、移植方法がど
んな方法であれ、巨額の税金が投入されることに違いはない。大ケヤキの命は風前の
灯火のように予断を許さない。                        

都有地にある樹木として保存樹に指定されていないのか、と聞いたところ、保存樹は
民間の樹木を保存するために作られた制度で、都有地の樹木には当てはまらないとの
こと。都有地の樹木は基本的に保存するという考えなのだ、と言う。ならば、なぜ残
すという選択肢だけで行動出来なかったのか。残すための手だてをしなかったのか。
移植ではなく、その木を生かした都営住宅の計画は出来なかったのか。      

大ケヤキを見ながら、なぜこの木が切られなければいけないのかと考えてみた。この
木は200年生きてきた。偶然でも200年生きるという事は大変なことだ。そして
人間の都合で切られようとしている。200年生のケヤキを探して植える事を考えた
ら、また、ケヤキを植えて200年育てる事を考えたら「切る」という発想は出て来
ないのではないか。                             

子供たちが見上げて、このケヤキが育ってきた時間を考えることもあるだろう。子供
の時から見続けて、大人になって懐かしく昔を思い出すこともあるだろう。時代の生
き証人として、シンボルとして、木を残す・・・そんな文化はないのだろうか。木が
育つということは時間そのものなのだ。我々が大きな木を見るときに感じる畏怖は時
間に対する畏怖なのだ。切るのは簡単だが、二度と作り出すことは出来ない。   

全員で工事事務所に入り話し合いをするが、内容は平行線。移植が不可能ならば伐採
するしかないという所長の言葉が繰り返される。経済効率至上主義の時代は転換しつ
つあるのだが、現場ではまだまだ昔ながらの権威がまかり通っている。伐採すること
を前提とした計画を変更する気はサラサラ無さそうである。これは話し合いでも何で
もない。                                  

この大ケヤキがどうなるのか、今後を見守りたい。都市の貴重な緑はかけがえのない
財産だと誰かが言った。切ってしまった木は二度と元に戻らず、記憶も思い出も一緒
に消えてしまう。無くしてから惜しむ人があまりにも多過ぎる。残せるものは残さな
ければいけない。これは、今の時代に生きている我々全ての人間の役目だと思う。 

大ケヤキはまだ生きている・・・あとはまた明日から。