村とダム



『村とダム・水没する秩父の暮らし』著者の山口美智子さんに聞く


2月22日(土曜日)時折風花の舞う寒い正丸峠を越えて車は秩父谷に入る。北側の斜
面には雪がまだ残っていて、2月の秩父の寒さを伺わせる。今日は『村とダム』を書
いた著者の山口美智子さんに会うために秩父に来た。山口さんは突然のお願いを心良
く承知して下さり、今日の二時に友人の店で会う事になっている。        

私は『村とダム』に描かれた合角ダムをまだ見ていないので、山口さんにお会いする
前に浦山ダムと合角ダムだけは見ておこうと思い、早い時間に家を出た。浦山ダムか
ら合角ダムを回っても一時までには友人の店に着くはずだ。           

午後一時 小鹿野町の『たじま』に着く。高校時代の友人がやっている店で、和食の
割烹である。じつはここで山口さんに会う前に、釣りフォーラムで知り合った安谷さ
んと待ち合わせをしているのだ。今回の話をメールで知らせたところ、是非同席した
いとの連絡があり、私も秩父事件などに詳しい安谷さんが一緒にいてくれればこんな
に心強いことはないので同席してもらい二人で山口さんの話を聞こうと思っていた。

安谷さんがやってきた。細身で学者風の風貌がいかにも安谷さんらしく、想像通りの
人だった。釣りの話、秩父の話、ダムの話と話がはずむ。長くなるのでここで一つ一
つ書くことは出来ないのが残念だ。いつも不思議に思うのだが、パソコン通信で会話
を交している人とは初対面なのになぜこれだけいきなり打ち解ける事が出来るのだろ
うか?実に不思議だ。長野でも、山形でも、秋田でもそうだった、初対面なのに昔か
らの友人のように話せる。                          

そうこうしているうちに「こんにちは、山口と申しますが・・・」という女性の声。
今回の主役 山口美智子さんの登場である。ちょっと緊張する、安谷さんも表情が心
もち堅くなった。挨拶のあと山口さんのご主人と安谷さんが知り合いという事が分か
り近況報告などをしながら、いきなり打ち解けた雰囲気になった。安谷さんに感謝!

________________引用____________________
山口美智子                                 
     1945年埼玉県秩父市生まれ、東京アナウンス学院研究科卒。1973年ころ
     から八ミリフィルムでドキュメンタリーを撮りはじめ『秩父事件』などを
     制作する。1979年『 の女』で第三回ひろしま国際アマチュア映画祭優
     秀賞受賞。『塚越の花まつり』で第七回日本映像フェスティバル八ミリの
     部優秀賞受賞。1985年から秩父郡吉田町塚越に在住。        
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山口さんの最初の印象は、会う前に考えていた映像作家だとか400ページものドキュ
メンタリーを書いた作家だとかのイメージとまったく違っていて、失礼な話だが普通
のニコニコとおだやかな女性の姿だった。ただ、話を進めて行くうちにニコニコ顔の
下にあるただならぬものに気付いていくという感じだった。           

________________引用____________________

               まえがき
昭和60年(1985年)、私は永年住み慣れた埼玉県秩父市から、現在住んでいる秩父
郡吉田町の塚越へ越してきた。その時、噂に聞いていた合角ダムが意外に近くにある
ことを知った。かつて埼玉県秩父地方で起こった秩父事件やこの地域の民俗行事など
を八ミリカメラで追い、数本の記録映画を作ったことがある私は、このダム建設のた
めに埋没してしまう地域の人々の生の声を記録に残せないだろうかと考えた。それも
映像で、できたら十六ミリフィルムで、と私の夢は大きく膨らんだ。しかし、主婦で
ある私には収入も無く、実際問題としてフィルムを買うこともできなかった。でも何
かの形でこの地域の人々の姿を記録に残したい。そのころの私は真剣に悩んだものだ
った。
秩父盆地の面積はおよそ1000平方キロメートル。その盆地の西側に位置する西秩父
は特に小石が多い乾いた土地で、人々はその土地を耕し、寄り添うようにしてひっそ
りと生活してきた。しかし、こんなに狭い地域でも何百年もの歴史をもつ数多くの祭
りや民俗行事が残され、現在に受け継がれてきた。そうした苦しい生活の中でも人々
は心を通い合わせ、それがやがて「お日待ち」を生み、さらに祭りへと発展していっ
たのだろう。                                
合角ダムの建設によって、そんな人々の心のつながりも、歴史も、民俗行事も、この
期を境に断ち切られてしまうのではないかと私は思った。そして、ただ傍観するので
はなく自分で聞き書きすることによって「言葉」一つについても多くの事柄を後世に
残せたらと考えたのだ。そこでこの記録ではさまざまな人々の思いを秩父弁でそのま
ま記述することにした。(略)                        
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山口さんの話は多岐に渡って続いていく、ダムの話、山の話、子供たちの話。本のタ
イトルから受ける印象ではダム反対を訴える内容のようだが、実際はちょっと違う。
ダム反対ではなくて、ダムによって消えて行くものの記録に山口さんの真意はあった
のだ。ダムに象徴される近代文明の荒波に流され急速に消えて行く山村の歴史や民俗
行事、そして明治、大正、昭和の時代を生きた人々の個人史を残さなくてはと思った
結果がこの本なのである。                          

山口さんは言う「こういうものを残したいとか、これを誰かに伝えたいと思ったらそ
れは自分がやるべきだって思っちゃうんですよね、今度の話だって誰かがやるよって
考えるんじゃなくて、自分でやらなくちゃって考えちゃうんですよ。今度の取材はそ
の人達がその場所に居る時でなきゃあダメだったんですよね、越してから話を聞いた
んじゃあ・・何て言うか感じが違うんですよ、その土地と一緒にある生活や歴史はそ
の土地を離れると実感がなくなるっていうか・・・」              

この本を読んで驚異に感じる事がある。私はこの土地出身者だからよく分かるのだが
この土地の人々は閉鎖的で簡単に他所者を信用しない。本にも書いてあるが三代続い
てはじめて仲間入を認めてもらうような土地柄なのだ。それが、たとえ自分史とは言
え本名で公表するということは大事件なのである。それも五十三人もの人の証言や記
録を公表するには大変な苦労と努力があったに違いない。現実問題として、同じ場所
に書いた人と書かれた人が住み続けていく訳だから・・・            

「そりゃあ大変だったですよ、最初は口もきいちゃあくれないし、どこへ行っても訪
問販売の人に間違われてねえ・・それでも何回も何回も足を運ぶと・・上がってお茶
でもどうだいなんて言われてね、そのうちボチボチ話をしてくれるようになったんで
すよね・・ 」その辺の事情は本文よりも後半の取材ノートに詳しい。私はこの取材
ノートがこの本の価値をグッと高めていると感じている。ここだけ読んでも面白い。

『村とダム』のその後の反響は・・・1/6読売新聞夕刊に紹介記事。1/30東京新聞
夕刊の読書欄に本人の紹介記事。2/9北海道新聞に紹介記事が掲載されるなど多方面
に反響が出ている。季刊kurooもそのうちの一つと考えたい。秩父市立図書館長から
は「こういうやり方もあったのか!新しい民俗学の取材方法だ。映像的手法での取材
方法だね」という言葉をもらったそうだ。                   

山口さんは地区の学校や図書館にこの本を寄贈している。子供たちに是非読んでもら
いたいと言う。自分たちの育った土地に起きた出来事を、おじいちゃんおばあちゃん
の時代にはこんな暮らしがあった事を伝えていきたいという思いからである・・・・
また、それとは別に倉尾地区の各戸に一冊ずつ寄贈したいと言う。それは、同じ地区
に住んでいた人達の事を忘れないで欲しいという思いからでもある。       

合角ダム建設の話があった時、なぜ教育委員会は水没する土地の歴史や民俗行事の事
を残そうとする動きが無かったのか疑問だと山口さんは言う。「私みたいな個人がこ
ういう事をやっていても教育委員会のダム対策室では調査や聞き書きには関心を示さ
なかったみたいだね・・」特に行政上ダム管理に中心となるべき小鹿野町の関心が薄
いのは残念だと言う。                            

秩父の人は決まってしまったものは仕様がないという風に考える人が多いのではない
だろうか?過去に秩父事件という政府に徹底的に弾圧された現場を見ている人が多い
せいかもしれないが、よほどお上には反発出来ないものと考える風土だと思われる。
「秩父はこれだけダムを作って下(しも)の人達に貢献しているんだから、県のお金
で市内に大学病院の一つも作ってもらいたいよねえ。今だに大きな手術なんかは市内
で出来ないんだからイヤんなっちゃうよ・・」秩父谷の人々の願いは昔からかなえら
れることなく続いている。
昨年十二月、小鹿野町に住む私の兄が胃穿孔から腹膜炎を併発した時市内で手術出来
ずに、深谷の日赤病院まで救急車で運ばれて緊急手術をした。幸い手遅れにならずに
助かったが、今も昔も秩父谷の人々は医療に恵まれていない。          

同席していた安谷さんが言う。「今まで山村は都市の人々にいろいろなものを提供し
てきた。古くは木材、食べ物、近代は人、そして今は電力と『水』。これは対等な取
り引きではなく、あきらかに取られていると言っていい。このままでは山村の未来は
ない」新しい価値を山村に創り、発展させる事がこれからの課題だと私も思う。  

ここに来る前合角(かっかく)を見て来た。落葉松峠から合角へ下ったのだが、十何
年ぶりに走った峠はトンネル工事の車がひしめいていた。工事現場の上の峠は昔なが
らの細い暗い山道のままだった。ダムの湖底に沈む合角耕地に立つと何もなくなった
耕地がやけに広く感じた、家の跡も畑の跡も木すらすでに無い。見上げるはるか天空
に建築中の漣大橋の姿がありここが湖底だということをハッキリ認識させてくれる。

こうして村の姿が変わる事が良い事であるとは思えない。山里の姿がいつまでも変わ
らずそこにあり続けるという事が正しい姿だと思うし、全てが循環していくことが自
然な姿なのだと思う。ダムを造ることは未来を切り売りすることだ、せめて百年先を
考えて計画出来ないものか?ダムを造って川を寸断して殺し、村を水没させて山を荒
廃させる。この国はいつから効率だけで物事を判断する商人の国になってしまったの
か?・・・・・湖底から見上げるダムの姿はとてもむなしいものだった。     

山口さんがこれから取り組みたい事について伺った。以前、歌舞伎の義太夫語りだっ
た海老沢ちよさんという人がいて、その人の茶屋芸者時代の話やその後の話を取材し
てまとめたかったのだが亡くなられて残念ながら出来なかったことがあったとの事。
今はどんどん時代が変わるから出来る限り残せるものは残したいが、明日はどうなる
か分からない。今は郷土芸能のうち舞踊に興味があって、置屋だとか手配師の事だと
か、様々な伝承の歴史をまとめて見たいと思っている・・・とのこと。その他、ご自
身が十年間苦しんだ更年期障害についても、同じ悩みを持つ人のためにいつかは本に
したいものだと言っていた。                         

山口さんの「やろうと思った事は自分がやらなければならない!」という言葉はズシ
ンッと胸に響いた。実践している人の言葉には重さがある。この取材を通して一番の
収穫はこの言葉を聞けたことかもしれない。                  

その山口さんには二人の息子さんがいる。長男はのんびりした性格で、将来は山でチ
ャボでも飼いながらボチボチやりたいと言い、次男ははしっこい性格で釣りが大好き
だと言う。この二人が大人になった時もチャボと共にのんびり出来る山があり、釣り
が出来る川や渓流があるよう おじさん達はこれからも山女魚を放流したり、木を育
てたりしていきたいと思っている。                      



『村とダム』 私の読後感を最後に・・・・                 

この本を読んで最初に受けた軽いショックは文章が秩父弁で書かれていた事だった。
今でも秩父に帰ると秩父弁で話している私にとってこの言葉は東京の人との一線を
画すもので、言うなれば血肉のようなものだった。それが文章になっているという
ことは、自分の血肉が人目に晒されているような気恥ずかしい感覚が湧いてきた事
だった。(東京の人にこれで分かるのかな?と思いつつ、横浜と世田谷の友人に読
んでもらったところ、ほとんど問題なく理解出来たと言っていたので私の心配は杞
憂だった。)
18才まで、この合角ダムの山一つ隣で育った私にとって本書に書かれている人達は
他人ではない。父母の知り合いであり、友人達の親の姿そのものであり、そして私
の育ってきた姿そのものでもある。土地とともにある生活、人間関係、過ごした時
間、記憶・・・そういったもろもろがダムの湖底に消える。その立場になった人で
なければ分からない苦悩が淡々と綴られていく。               

村も、人も、田畑も消え記憶だけが残るのみ、山口さんはそれを記録してくれた。
同郷の人間として感謝に耐えない、この記録の書がずっと読みつがれることを願い
たい。

ありがとうございました。             (1997年1月28日 読了)